品のない性的表現として非難される観光PR

宮城県が作製した、檀蜜さんが出演する夏の観光PRに、

「品がない」

「性的表現は不愉快だ」

という苦情が、90件寄せられ、女性県議が削除を求めているという報道がありました。

賛否両論の今回の反響は、過去にはないほどで、県はそのまま継続するそうです。

 

どこからか、

「不愉快だ」

なんて苦情が少しでも上がると、すぐに削除だ謝罪だという世間の風潮に、珍しくお上が迎合しない判断を示したことになるかと思います。

 

ボーナスのない人々には、ボーナス支給時期に流されるコマーシャルは不快で、円満な家族が集う家や家族の幸福を見せるストーリーを展開する自動車の宣伝が嫌いだという人もいらっしゃるかと思いますが、そんな苦情がコマーシャル中止に至る場合は、珍しいのではないかと思います。

 

世の中、何かを行って100%苦情が出ない、なんてことはないように思います。

 

性的な表現が不愉快だ、品位がない、てな理由で宮城県を訪れる観光客が減るとしたら、県としては考え直さなければならないかもしれませんが、逆に増えるようなら、県民の税金が生かされた、逆に、削除して観光客が減ったとなれば、削除を求めた県議は、県政を誤った、ということにもなるかと思います。

 

こんな話を例の友人にいたしましたところ、

「キミの場合、要は、壇蜜さんのファンだということだよね」

『黒革の手帳』と『白竜』の教え〜主導権を握れ〜

昨夜からABCテレビで松本清張先生の小説を原作とした『黒革の手帳』が始まりました。

単に悪知恵の働く女ではなく、危険と背中合わせの緊迫した状況にあって、ほんとうはぎりぎりの精神状態にありながら、平然としてそれをしてのける女を、武井咲さんが見事に演じていました。

いつもそうですが、

「悪女というのは、どうしてあんなに魅力的なんでしょう」

と思います。

特に、三人がかりで有利に交渉を進めようとする銀行側に、たった一人で対峙して主導権を渡さなかった場面にはしびれました。

 

今週号の週刊漫画ゴラク日本文芸社)の『白竜』(原作・天王寺大さん 作画・渡辺みちおさん)にも、同様のシーンがありました。

吸収合併された企業の従業員の弱い立場につけこむ経営者に、その従業員を代表する人物が主導権を握る交渉をするところです。

 

スポーツの解説を聞いておりますと、

《主導権を握る》

ということがよく言われますが、ビジネス書やコミュニケーション関係の書籍に、

《主導権を握れ》

なんて文言は、アタクシ、寡聞にして見かけません。

 

かつて日本人にお馴染みだった勧善懲悪をテーマとした時代劇では、弱い者を正義の味方が助けに来てくれる、という筋立てが基本であったということを鑑みますと、弱い立場にあっても主導権を握る交渉ができる、という発想は日本人にはなかったのかもしれません。

むしろ、それは、『黒革の手帳』や『白竜』のように、悪の専売特許のようなイメージがあるのかもしれません。

でも、主導権を握る交渉を展開する知的な悪は、魅力的です。

 

アタクシも見倣おうかと思っておりますが、

「それも、頭がよくないとできないよね」

とは、例の友人の言葉であります。

人権派を名乗る以前の問題

民進党の連坊代表の二重国籍問題について、人権派を名乗る弁護士、有田参議院議員の対応を、日本維新の会法律顧問の橋下氏が避難しています。

有田氏は、数年前に橋下氏の出自について問題になったときには擁護どころか面白がり、連坊代表の場合は、人権問題として発言しているそうで、橋下氏でなくても、

「自分の嫌いな相手なら面白く、自分の所属する党の代表なら人権問題にする」

と怒りを表明するのではないかと思います。

 

でも、

「あんた、こないだ言うてたことと、違うやないか!」

なんてシーンは、世間にはごろごろしております。

 

なにしろ、学校で恐い先生か騒いでも怒られない先生かによって態度を変えるなんてことが学校教育現場にはびこっている国でございますから、それが一つの国民性になっていると考えれば、別段、怒るようなことではないかと思います。

問題は、自分がそういう人間だと自覚し、友人知人関係者にそれを周知しているかどうかだと思います。

 

いずれにしろ、人権派弁護士か悪徳弁護士か、いえ、弁護士、政治家に関わらず、自分がどんな人間か庶民に誤解のないような看板を上げてもらいたいと、切に願う次第であります。

 

え? アタクシ?

人畜無害、いてもいなくてもいいようなブロガーでございます。

日野原重明さんの御冥福をお祈りします。

昨日、日野原重明さんがお亡くなりになりました。

105歳でなお医師であった日野原さんの残された数々の言葉に励まされた人もたくさんいらっしゃるようです。

 

たとえば、

「生きがいとは、自分を徹底的に大切にするところから始まる」

 

「生きがいを持て」

とは、よく言われる言葉です。

「自分を大切にしろ」

という言葉は、青春ドラマなどでもよく出てきます。

 

ほとんどの方は、生きがいを持つことと自分を大切にすることが、密接に関係しているなんて意識を持ってはいなかったのではないかと思います。

でも、そんな我々に、徹底的に自分を大切にしなければ生きがいは持てないと、二つの言葉の関係性を喝破したのは、やはり日野原さんだったからではないかと思います。

 

ただ、どれだけ自分を大切にしているつもりでも、生きがいが見つからないという方は、少なくないのではないかと思います。

 

アタクシなんぞも、自分が傷つかないように他の人が迷惑に思うほど自分を大切にしてはいるのですが、たいした生きがいを持っているとは……

 

え?

(自分が傷つかないように人に迷惑をかけているということは、日野原さんのおっしゃる自分を大切にすることではないんとちゃうか〜!)

 

いちばん難しいのは、自分を大切にすることのようです。

 

日野原重明先生の御冥福をお祈りします。

双葉文庫《妖異》と岡本綺堂大先生の『猿の眼』

双葉文庫《幻異》に続いて、《妖異》も読みました。

日本推理作家協会賞受賞作品のアンソロジーですから、その多くは怪異譚でありながらミステリーでもあるという趣向で、読者には謎解きの楽しみもあります。

 

ただ、たとえば中島らも先生の『琴中怪音』は、そのその不思議の正体が詳らかにされないままという古典的な、また、山村正夫先生の『断頭台』は、不条理な結末になんら解説を加えることのない作品で、アタクシ、個人的には、合理的な説明が付随するミステリー的怪異譚より、こちらのほうを好みます。

 

中島らも先生の系統で申し上げますと、岡本綺堂大先生の『猿の眼』(旺文社文庫《影を踏まれた女》)がやはりその最高峰に位置するものではないかと思います。

なにしろ、出所不明の猿の面に髪を掴まれて……

「キャー!」

思い出すだけで、

〈全身の毛穴が開く〉

〈背筋に冷たいものが走る〉

〈恐怖に身がすくむ〉

どんな常套句を使っても表現しきれない、

〈えも言われぬ正体不明の恐怖〉

が身中に甦ります。

 

《幻異》の山田風太郎先生の『雪女』や日影丈吉先生の『眠床鬼』も、そうした可能性を持った作品ではあるかと思いますが、見事にその怪異の謎が解明されておりました。

 

奇を衒った安直な怪異現象を扱うばかりでは芸も何もありませんが、なんでも論理性、合理性を求める風潮にある現代社会であればこそ、不条理な恐怖が必要なのかもしれません。

最近話題の女性議員の言葉遣いを腹立たしく思っております。

豊田真由子衆議院議員の暴言騒動に続き、上西小百合衆議院議員ツイッターでの、

「ムカつく」

「他人に自分の人生のっけてんじゃねえよ」

発言が、炎上しているとのことですが、いったいいつから政治家たちは、こんなに言葉遣いが悪くなったんでしょうか……

 

差別だ何だと言われるかもしれないことを承知であえて申し上げるなら、女性議員の言葉遣いがこんなにひどくなったのは、いつからなのでしょうか……

 

国会議員に限らず、男女を問わず、言葉遣いが悪くなったのは、アタクシ、個人的にはテレビに責任があり、ツイッターフェイスブックの影響は否めず、ちょっとだけ学校教育にも問題がありそうに思っておりますが、女性が、しかも言葉が命と言われる政治家である方が、こんな乱暴な言葉遣いしかできないというのは、明らかにボキャブラリーの不足した、自分の言葉で語ることのできない、政治家をされていてはいけない方々ではないかと思います。

 

「ムカつく」

というのは、せめて、

「腹立たしい」

「他人に自分の人生のっけてんじゃねえよ」

は、

「自分の人生を他人に重ねるのは、いかがなものかと存じます」

ぐらいにおっしゃっると、言葉遣いも知らないあばずれ、なんて思われなくて……

 

え?

(あばずれなんて言葉、誰も知らんぞ!)

 

失礼いたしました。

よい子が使ってはいけない言葉でした……

寿桂尼の教え〜泣き言を言うた者から負けるのじゃ〜

今年のNHK大河ドラマ『女城主直虎』で、主人公より圧倒的な存在感を見せていらっしゃるのが、浅丘ルリ子様演じる、今川義元の母、寿桂尼です。

 

当初からの予定だったのか、それとも視聴者からの希望が多かったのか、今夜の主人公は、寿桂尼様のようです。

 

浅丘ルリ子様の演技もさることながら、やはりその台詞に魅力があるようです。

先ほども、

「泣き言を言うた者から負けるのじゃ」

は、現代にもそのまま通用する言葉かと思います。

 

「もう無理」

「泣き言を言うた者から負けるのじゃ」

 

「やっぱりできません」

「泣き言を言うた者から負けるのじゃ」

 

今日のブログのネタをどうしたものかと思案しておりましたところに、この台詞が耳に飛び込んで参りました。

 

『泣き言を(五音)』

『言うた者から(七音)』

『負けるのじゃ(五音)』

と、五七五というところが耳に心地よく、これを使わずして何とする、と思いながら、早速使わせてもらいましたが……

 

「たいしてアクセス数もないのに、連続1000日ブログなんて、もうネタがありません」

「泣き言を言うた者から負けるのじゃ」

 

自分に還ってくるとは気づかぬままに……

 

え?

(いつものことやろ!)