安室奈美恵さんの引退宣言から

安室奈美恵さんが、2018年9月16日をもって引退するというニュースが報じられました。

 

「最後にできる限りの事を精一杯し、有意義な1年にしていきたいと思います」

「私らしく2018年9月16日を迎えたいと思います」

 

というファックスの文面は、前向きでさわやかでさえあります。

 

今年は、ゴルフの宮里藍さんの年内引退宣言があって、ついに先日、その日を迎えましたが、やはりさわやかでした。

テニスの伊達公子さんの二度目の引退も、非常にさわやかでした。

 

歌手やスポーツ選手に限らず、引退となると、哀しさととももに、ある種のさわやかさが感じられるようです。

そこには、〝手放す〟という行為に付随する、潔さがあるからではないかと思います。

 

反対に、いつまでも権力の座に君臨している者は、どれだけ老害と陰口をたたかれようが、どれほど醜態を晒そうが、〝手放す〟なんてことはしません。

自転車事故で長期の治療リハビリに励む自民党の元総裁、谷垣さんは、今回の解散相戦況にあたり、

「立候補を見送る」

と報じられています。

 

暴言の豊田さんも、不倫の山尾さんも、組織から切り離されても、政界からの引退なんて、お考えになっていらっしゃらないようです。

だから、政治家と仕事が務まるのかもしれませんが、逆に言うと、〝手放す〟ことが恐いのかもしれません。

 

でも、引退して手放したら、新しい何かが手に入るのではないかとも思います。

 

安室奈美恵さんは、次に何を手に入れられるのでしょうか?

使える言葉〜角を矯めて牛を殺す〜

先日の、なでしこ練習会のあとのオッサン座談会では、

落研派〉と〈スクール派〉の違いについても、話が及びました。

 

落研派〉と申しますのは、学生時代に落語研究会に所属していた人たちで、〈スクール派〉は、社会人になってプロの落語家が講師として指導している教室などに通って落語を学んだ人たちです。

 

簡単に言いますと、プロの噺家を師匠とした方は、その師匠の型に縛られ、学生時代に落語に触れた人間は、そのクラブの、あるいは先輩の教えに縛られる、ということになるかと思います。

 

ですから、たとえば、

「教室で先生にこういう指摘を受けてどうしたものやら悩んでいます」

てな方が、落研派の人に、

「いやいや、われわれの方ではこないしてまっさかいに、そうではなく、こうやないかと思います」

なんてアドバイスをされますと、よけいに悩まむことになります。

 

「大事なことは、『角を矯めて牛を殺す』、つまり、細かいことにこだわってその人の持ち味を損なう、なんてことにならんようにすることちゃいまっか」

と、アタクシ、申し上げましたら、

「ええこと言うな」

ほめられましたので、つい調子に乗って、

「そうでっしゃろ。ワタイね、皆さんから落語の評価を求められたときに、こない言うようにしてますねん」

そしたら、

「それって、細かい指導がでけへん、ということやないか」

「なんでわかりましたんや……」

山下達郎さんの「あなたの歌を聞きに来たのではない」

御自分のライブに訪れるファンから、

「ライブで一緒に大きな声で歌うと、隣の妻に、あなたの歌しか聞こえないと言われましたが、一緒に歌うのはどうでしょうか」

という主旨の質問を受けて、山下達郎さんは、

「あなたの歌を聞きに来たのではない」

と、ライブでファンが一緒に歌うことに否定的な見解を示されたそうです。

 

先日、サワコの朝にゲスト出演されたさだまさしさんは、自分のコンサートに来られたお客様の中に、これから歌が始まるというときに、トイレに行く方がいらっしゃって、どうして歌も聞かずにトイレに行くのか尋ねたところ、歌は家に帰って聞くから、と言われたそうです。(ほんまかどうかわかりませんが……)

 

落語では、どんなにその噺家のファンでも、落語会で一緒にネタを口にする輩の話は、耳にしたことはありません。

 

とはいえ、歌手やバンドによっては、会場に集まったみんなが一緒に歌うことを暗黙の前提にしている場合もありますから、そういうお客様ばかりではない山下達郎さんや、あるいは演歌歌手のケース、ということになるのかもしれません。

 

ただ、

《あなたの歌を聞きに来たのではない》

という言葉は、日常でもよく使われているように思います。

 

「君の意見を聞きに来たのではない」

「君の話を聞きに来たのではない」

「君の言い訳を聞きに来たのではない」

 

ほとんど、人間関係を壊すことになるのではないかと思います。

 

山下達郎さんだから、口にできる言葉です。

 

え?

(どうしてオマエにそんなことが言えるのか?)

 

アタクシ、カラオケで人の歌に合わせて歌って、

「あなたの歌を聞きにきたのではない」

 と、さんざん言われてまいりましたから……

ウルトラマンになれなかったウルトラ警備隊員からのメール

昨日の、『仮面ライダービルドのテーマ』を御覧くださった、“ウルトラマンになれなかったウルトラ警備隊員”さんからメールをいただきました。

 

「講談師の神田陽子先生が、能面師による面の動きで感情を表現するといった意味のマクラを語られました。

また、スーパーマンバットマンと違い、日本のヒーローには仮面で顔の表情を隠すケースが見受けられます。

ウルトラ警備隊員として)ウルトラマンを見ながらそんなことに思いを馳せて、にんまりとしていたら、任務を果たすように無線で注意された……」

そうです。

 

以上は、一部抜粋した内容ですが、日本の俳優に見る戦後の哲学的な流れに関する考察を述べながら、ウルトラマンの歌詞に、

「地球の平和を守る」

という言葉を記憶の中から見つけられなかった、哀しくも切ない思いまでもが綴られた、

「アタシのブログよりおもろいやないの……」

てなメールでございました。

 

おかげで、今日は4回目のブログ更新をしてしもたやおまへんか。

留さん、どないしてくれまんねん……

なでしこ練習会レポート2017Vol.2〜オッサンたちの座談会の続きはもういらん!〜

先ほどのオッサン……

失礼。

お三方の話題は、

《すべてを説明していいのか?》

というところにも及びました。

 

たとえば、『お玉牛』では、闇の中で牛の汚いナニを手にして、

「くさ」

と言うところがありますが、お客様は、それまでの状況から、その手についているものが、すくなくともお玉の鬢付け油ではなく、牛の臭いナニであることはわかっているから、あえて、くさ、てなことを言う必要はなく、まったくその仕草だけで十分なのではないかと、いうことです。

 

といって、古典芸能である落語を見て、

「なんや、ようわからん」

という感想を持たれる初心のお客様は少なくありませんから、

「そんなんわかってるで」

という方がいらっしゃったとしても、すべての方にご理解いただけるように尽力すべきではないか、という論議もされました。

 

小説においては、昔から読み手に求められる、

《行間を読む》

シナリオにおいては、書き手の戒めとされる、

《安易にナレーションを入れない》

といったところになるかと思います。

 

この問題も、演者の考え方によって変わるようですが、創作者としても心得ておかなければならないポイントでもあると思いました。

インタビューここから〜秋元康さんの川の流れのように生きる〜

今朝のNHKの、《インタビューここから》のゲストは、作詞家の秋元康さんでした。

 

美空ひばりさんの『川の流れのように』(作曲・中村泰士さん 東芝レコード)を作詞されて、ご自身、この川の流れのように生きていらっしゃるとのことです。

 

ただ、流されるのでは、行き先を決めることなく、自分の興味の赴くままに自ら流れて行って、行きついた先が、今、といったことを述べておられました。

 

自身の定年に関しては、

「好奇心がなくなったとき」

ともおっしゃていました。

 

子供の頃には、将来の夢やテストの目標点、社会に出たら、ビジネスにおける目標の設定、定年間近になると、定年後の準備、などと言われる現代社会に生きる人々とは、まったく違う次元で生きていらっしゃるようです。

 

先日の、阿久悠先生の対談記事と合わせて考えますと、

《好奇心を持って川の流れのように生きながら、有名になりたいという想いを隠さない》

という言葉を座右に置けるのではないかと思います。

 

アタクシも、早速、ここから今から始めたいと思いますが、例の友人が、一言、

「キミの場合、これまでもそうやって生きてきたじゃないか」

 

 

なでしこ練習会レポート2017Vol.2〜オッサンたちの座談会〜

昨日、なでしこ練習会にうかがいました。

台風が接近しているために、各地で予定されていたイベントが中止になる中、多分、いつものように開催されるだろうと、確認することなく足を運びました。

 

もちろん、開催されていましたが、台風でお客は少ないだろうと思いきや、却っていつもより多いのではないかと思うほど盛況でした。

 

前回同様、皆さん、それぞれの課題を持って高座に上がっていらっしゃいましたが、なかなかどうして、ステキな落語を見せてもらいました。

 

台風の影響による交通機関の休止が懸念されるために、終演後の意見交換などは手短に行われるというお話でしたので、アタクシも早々に退去いたしましたが、そこにおいでになられた、上方のアマチュア落語界の名人と称される千里家師、立の家猿之助師、田舎家かかし師と一杯酌み交わしながら、三師の落語談義、芸談義を拝聴することができました。

 

面白かったのは、その噺の背景や場面の状況まで、声の出し方、上下の付け方、所作に至るまで、理論的に構築するべきなのか、笑いが取れるならそんなところにこだわる必要はないのではないかと、という議論でした。

 

この議論は、先日、購入いたしました、安田清人氏の『時代劇の「嘘」と「演出」』(洋泉社)の、

〈時代劇の時代考証をどこまで重視するか〉

というテーマと同じで、

「エンターテイメント性や笑いを追及するか、史実やリアリティを尊重するか」

という議論は、つまりは制作現場が、あるいは演者がどこに妥協点を見出すか、というところに尽きるかと思いますが、そのさじ加減は、やはり難しいように思います。

 

師匠と一対一で向かい合ってお稽古をつけてもらう落語は、その師の考え方によってこだわったり寛容だったりするようですが、アマチュア落語においては、

「その人に、落語を好きになってもらいたいという気持ちを持って、皆さんの落語に接しています」

とおっしゃった田舎家かかし師の言葉に尽きるように思いました。

 

え?

(華やかななでしこ練習会のレポートやのに、なんでオッサンの落語談義を読まされなあかんねん!)