落語とコミュニケーションの皮肉な関係

〈コミュニケーション〉とカタカナで表記されているということは、その言葉が、本来、日本にはなかった概念であることを意味します。

 

お亡くなりなった桂枝雀師匠から、英語落語が受け継がれています。

日本の落語家が演じる英語落語は、もう珍しくなくなりました。

そのせいかどうか、落語を演じる外国人も登場するようになりましたが、英語を母語とする外国人が、英語で落語を語るという話は、寡聞にして耳にしたことがありません。

 

外国人が日本語で落語をやって、日本人が英語で落語を語るというのは、皮肉な現象かもしれません。

 

日本語学校に通う外国人留学生は、英語落語より日本語の落語を好むという話を、今日、ある人から聞きましたが、笑いの本質……というよりは、〈コミュニケーション〉の本質が、そこに表れているように思いました。

 

落語は古い話なので、今の若い人には理解されないとか聞いてもらえないとか、そんな話がプロの噺家の口から出ることもあるようですが、日本語で落語を聞き、日本語で落語を語る外国人の存在が、そういった言い訳を口にするプロの腕がどれほどのものかを推し量らせてくれます。

 

『高座に上がって、ただ坐っているだけで、お客様が楽しい気持ちになる……』

それが、桂枝雀師匠の理想だったというようなお話を聞いた記憶があります。

 

〈コミュニケーション〉の概念は、新たに入ってきたものかもしれませんが、その本質は、もともと落語に備わっていたのではないかと思います。