沈黙を語る者

『沈黙』と言えば、遠藤周作さんの代表作ですが、村上春樹さんの作品にも『沈黙』という短編があります。

自分を貶めた悪意に復讐するのではなく、また、悪意によって生じた周囲の誤解に弁明を試みるのではなく、沈黙して耐えることを決意する小説で、こうしたことは、現実に誰にも起こりうることだと感じさせてくれます。

 

〈沈黙〉を冠した作品や言葉は、少なくありません。

沈黙の春』『沈黙の世界』『沈黙の艦隊』『沈黙の臓器』『羊たちの沈黙』等々。

でも、沈黙の反対を意味する雄弁や饒舌がタイトルになったものは見かけません。

 

「沈黙は金、雄弁は銀」

と、昔から言わるように、うまく話すことよりも、沈黙を守るタイミングを知ることの方が、昨今、流行のコミュニケーションには、もっとも必要かもしれません。

 

そう考えると、たとえば、人前でうまく話せないことにコンプレックスを感じることもないと思います。

そうしたコンプレックスがあると、

「的外れかもしれませんが……」

「うまく言えませんが……」

などという言い訳をしながら、自信のない自分をさらけだしことになりますが、うまく話す必要などないと思えば、堂々としていられます。

どうしても話さなければならないときでも、多弁を弄するのではなく、笑顔で沈黙を見せたあと、ほんの一言、二言を述べるだけで十分です。

 

あるいは、会話をしているときには、こちらが沈黙していると、それに耐えられない相手が勝手にしゃべってくれます。

それを傾聴するだけで、コミュニケーションは十分にとれます。

 

ただ、グローバル化が叫ばれる昨今の状況を考えると、コミュニケーションという欧米の産物を無視するわけにはいきませんが、日本人が元々『沈黙の民族』だとすると、これにコンプレックスを持つのは当たり前だということも言えます。

 

村上春樹さんの『沈黙』を読んだという話から、このように沈黙について述べ、さらに〈沈黙〉についての考えを開陳しようとしたとき、それまで沈黙を守って聴いてくれていた例の友人が、一言、

「キミは、沈黙を語る資格に欠けている」