最初に触れたのが旭堂南左衛門さんでしたから、数年前に、当時の旭堂小南陵の講談を初めて聴いたときに思いましたのは、
「南左衛門さんの講談とは違って、講談という伝統芸能の〝型〟を高座で演じているだけではないのか……」
という感想でした。
でも、伝統芸能の第一番の使命が〝型〟を伝えることだと考えますと、一概にそれを非難することはできません。
落語でも同じことが言えるとしたら、師匠のコピーのような弟子の芸は、それに適っていると言えます。
しかし残念ながら、それでその弟子が高い評価を得ることはありません。
芸能の世界で昔から言われております、
〈守〉〈破〉〈離〉
から考えますと、〝型〟を伝えるだけの〈守〉にとどまっていてはいけないということになります。
お亡くなりになった桂枝雀師は、師匠のコピーから見事に脱皮を果たし、今でも枝雀落語には根強い人気がありますが、反面、邪道であるかのような評もかつてはあったようです。
東京の落語家では、やはりお亡くなりになりました林家三平師もそうではなかったかと思います。
伝統芸能のこうしたジレンマは、実は生物の進化と同じではないかと思います。
生物の存在意義が、もし、DNAをそのまま伝承することにあるとしたら、環境の変化に対応できないまま滅亡の道を選択するリスクを背負うことにもなります。
実際、そうして滅んだ種もあります。
そうならずに保存が継続できている種は、環境に対応する変化を遂げています。
伝統芸能においても、かたくなに〝型〟を守るだけの人種もあっていいかとも思いますが、それだけではいずれそれは滅んでしまいます。
そうならないように国や自治体が補助金を出していたしても、それは種の保存のために研究室の中で保存するのと同じことのようにも思います。
そんなことを考えながらもDNAの〝型〟の支配からは逃れられず、
「何はともあれ、どんなDNAでも残すためには女性にもてないといけない……」
てなことを性懲りもなく試みようとしております……