芥川龍之介さんの小説『杜子春』では、仙人になることを願った杜子春は、仙人に課せられた禁を敗って、仙人になれませんでした。
同じく『魔術』でも、結局、ミスラ君の魔術試験に失敗して、主人公が魔術師になることはかないませんでした。
『蜘蛛の糸』でも、カンダタは救われませんでした。
小説の一つの方法として失敗をさせるのか、あるいは芥川龍之介さんの心の中には、無慈悲な何かがあったのかはよくわかりません。
小噺にも、仙人が登場します。
ある男が山中を歩いていると、昔馴染んだ芸妓と遭遇します。
芸妓は仙人になっていて、指差した石を金に変えてみせました。
そうして、
「何か欲しいものがあれば、言うてみよ」
と言いましたので、男は、
「その指がほしい」
落語では、そこでオトしてその後、どうなったのかは示されていません。
オチさえつけば、その後の展開に触れなくてもいいという不文律が落語にはあります。
芥川龍之介さんの『羅生門』の主人公、下人のその後は知れぬままになっています。
同じく『藪の中』では、真相はわからないまま終っています。
『トロッコ』では、先行きの確かではない不安を著しています。
願っても叶えられない人間、あるいは先行きの知れない不安が描かれているからこそ、芥川龍之介さんの作品は読み継がれているのだろうと思います。
しかし、だからこそ、適当なところでオチをつけて笑ってしまう落語も継承されているのかもしれませんが、個人的には、
「こうした作品を参考にしていれば、失敗せんと、仙人か魔術師になれるやろ……」
とは思っていますが、問題は、どこでどうやって仙人やら魔術師に遭遇できるか、というところです。
デンデン
(え? 違う? 甘い? 修行が足りん!)
そうは言われましても、ここが今日のブログのオチをつけるのに適当なところかと……
あ! アクセス数が下がってる!