『羅生門』から読み取る〈変われる人〉と〈変われない人〉

芥川龍之介先生の『羅生門』を、最近読み直す機会がありました。

 

羅生門』のテーマとして一般に言われておりますのが、

「自分が生きるためなら、悪事を働いた奴に悪いことをしてもいいか?」

なんてところかと思いますが、実は、もう一つ、

「それまで堅持していた自分の信条や考えが変わる瞬間」

というところも、テーマになるではないかと思いました。

 

飢え死にするか盗人になるか選択しなければならない状況に追い込まれている下人が、生きるためには盗人になるより方策がないとわかっていながら、踏み切れないのは、彼が有する正義感からです。

だから、羅生門の楼上で死人の髪の毛を抜く老婆に怒りを覚えたわけですが、その老婆の生きるための理屈、

「自分が生きるためなら、悪事を働いた奴に悪いことをしてもいい」

によって、下人はたちまち盗人に変じます。

 

それまで身に染み付いた考え方、行動倫理を変えるということを、〈節(せつ)を曲げる〉てな言い方をいたしまして、他者から、あたかもご都合主義的な人間のようなイメージをもたれることを虞れる人は少なくないのではないかと思います。

 

ただ、

『君子は豹変す』

という言葉の本来の意味は、君子は過ちだと気づけばすぐに行動を変える、ということですから、それを持ち出して自分を正当化する人も珍しくはないように思います。

 

こんな話を例によって例の友人に語りましたところ、

「キミの場合、なんら変わることなく生きているよね」

なんて珍しくほめてくれましたので、

「うれしいな。節を曲げない人間だと、アタシを評価してくれているんだね」

と素直に喜びを表明いたしましたところ、

「最初から、節というものがないからね」

「え?」

「つまり、キミは無節操な人間だということだよ」