ハーフから見た日本のカタチ

NHKのドキュメンタリー番組『ひとモノガタリ「曖昧な境界を生きて〜ハーフから見た日本のカタチ」』を見て、

〈他者を無条件で認めることの難しさ〉

を感じました。

 

見た目は日本人と違う、例えば白人系の彫りの深い容貌ならうらやましがられ、褐色の肌をしていれば高い身体能力を期待されるけれど、それが却って本人たちを苦しめる要因になっている……

 

外見の違いが招く羨望や期待は、決して無条件でその人の存在を認めているのではありません。

当事者でもある池間昌人アナウンサーは、

「線を引かれる」

と表現していました。

 

羨望や期待は、称賛ととらえることもできますが、それを裏切ればその存在が認められなくなるのではないか、という受けとる側の虞は一般にもあります。

 

おそらく、番組が伝えようとする主旨とは異なるかと思いますが、マザー・テレサのように、すべての人の存在を無条件で認めてそれを相手に伝えることがいかに難しいことなのか、ということを思いました。

 

こんなことを例によって例の友人に語りましたら、

「キミの場合、無条件で自己の存在を認めていないからねぇ……」