伊藤亜紗さんのの『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社新書)を読みました。
結論は、
〈「見えないこ」が触媒となるような、そういうアイディアに満ちた社会を目指す必要があるのではないでしょうか〉
ということですが、〝見えているはずの者の目〟から鱗を叩き落としてくれるような、そんなことを次々と〝見せられた〟たように感じました。
読みながら、単に目の見えない人だけの問題ではなく、健常者にも当てはまる点がいくつもあるように思いました。
たとえば、個人の「できなさ」「能力の欠如」としての障害のイメージは、産業社会の発展とともに生まれてきたと多くの研究者が指摘している、と述べられて、均一な製品を作るために労働も均一化されて「誰が作っても同じ」である必要性から、〈交換可能な労働力〉が求められるようになった、と記されています。
これは、配置換えなどによって精神を病んでしまう健常者にも当てはまるようにも思いました。
また、交換可能な労働力であるはずだというおとを忘れて、
「この仕事は俺以外にできない」
などと勘違いしている御仁も多いようにも思います。
世間では、
〈みんな違っていい〉
てな言い方が出回っているようですが、多くは、
「ワタシは他の人とは違うんだ」
ということを強調するために、あるいは他者との摩擦を避けるために使われているだけで、実際、目の見えない人の一般的なイメージにとらわれて、自分とどう違うのか、ということを深く理解しようという努力をしないままやりすごしているのと同じように、他者との違いを上辺だけで認めているのではないかと、アタクシ、密かに疑っておりますがいかがでしょうか……