『表現の不自由』は言葉のないヘイトスピーチだったのか……

たぶん、芸術はお笑いと同じだと思います。

表現の自由を云々する前に、人としての在り方を問わなければならないと思います。

 

今朝、愛知トリエンナーレで物議を醸しながら、再開された例の『表現の不自由展』の特集を放送していました。

そこで問題になっていたのが、見る側が不快に感じるか否か、というところでしたが、お笑いも、裸になって踊って見せる下卑た芸に笑う人と不快に思う人に分かれます。

それは、個々人の感性によるところで、そういう意味で、表現の不自由展についてアタクシ、個人的な好悪を表すつもりはありませんでした……

 

でも、今朝の放送を見て、天皇のご真影を焼いた作品があったことを知って、

「それはもう芸術ではない!」

と思いました。

別に、日本人のアイデンティティーだの天皇陛下に対してどうだとのといったことではありません。

 

天皇陛下でなくても、誰かの写真を焼くという行為は、その人物の消滅を意味するものだと解釈することができるからです。

 

たとえば権力者を皮肉るような笑いや芸術はこれまでにも認められてはいますが、特定の誰かを消滅させる表現は、かりにそこに制作者の何らかの意図があったとしても、人間として許されない一線を越えているのではないかと思います。

 

表現の自由の範疇に、ヘイトスピーチや暴言は含まれません。

言葉にしていないだけで、特定の誰かを写した写真や絵を焼けば、それはもう芸術でも表現でもない、もちろんお笑いでもないと、アタクシ、改めて思った次第でございます。