『悪の哲学』には、二千年前のアウグスティヌスの『告白』から部分収録した「仲間と犯した窃盗のこと(山田晶さん訳)」が掲載されています。
そこには、数多の悪徳が示されています。
〈たかぶり〉〈野心〉〈権勢欲〉〈媚び〉〈悪徳〉〈無知〉〈愚昧〉〈怠惰〉〈ぜいたく〉〈浪費〉〈むさぼり〉〈妬み〉〈怒り〉〈とりごし苦労〉〈悲観〉
これらが悪と規定されるなら、アタクシは間違いなく大悪人でございます。
でも、この文章の主題はそこにはなく、十六歳のときに犯した窃盗、夜中に仲間と梨を盗んだことについてのアウグスティヌスの告白であり懺悔であり、その心理に関する分析に、その主眼がありました。
梨という〝もの〟を盗みたかったのではなく、盗む〝こと〟に愉快を見出したのは、そこに仲間がいたから……
二千年前のこの告白は、そのまま現代にも当てはまるかと思います。
悪は、決して特別な者の精神にあるのではなく、人間であるなら、誰の心の中にも存在している、ということかと思います。
しかし、
「いや、アタクシは仲間と盗む事に愉快を感じることはありません」
と断言いたしますが、それはたまたまそういう機会がなかっただけ、つまり運がよかっただけなのかもしれません。
運悪く明らかになったのは、
〈たかぶり〉〈野心〉〈権勢欲〉〈媚び〉〈悪徳〉〈無知〉〈愚昧〉〈怠惰〉〈ぜいたく〉〈浪費〉〈むさぼり〉〈妬み〉〈怒り〉〈とりごし苦労〉〈悲観〉
ぐらいです……