結果的『日本人の《コミュニケーション能力》進化論』

〈コミュニケーション〉とカタカナで表記されているということは、この言葉が、本来、日本語にはなかった概念を表す言葉だということがわかります。

ですから、日本人の〈コミュニケーション能力〉が、本家本元の欧米より劣っていたとしても、それに劣等感を持つべきではありません。

むしろ、そのまま日本語に訳せないカタカナ言葉のせいで、どれほどの日本人が不要な負い目を感じ、困惑していることでしょうか。

 

たとえば〈アイデンティティ〉などはその最たる例で、それが見つからないと、あたかも人として何か欠落しているのではないかという印象さえ、一般に持たれてしまいます。

 

欧米のそうした言葉を、どうしても日本に根付かせたいのなら、カタカナ語を漢字に改めて表記すべきではないかと思います。

 

たとえば、〈野球〉などはその最たる例で、今や本家のアメリカを相手にしても引けを取らぬほどの力が、日本の野球にはあります。

あるいは、〈テレフォン〉ではなく、〈電話〉という日本語になって、携帯電話は、ガラパゴス携帯と呼ばれるほど、日本独自の進化を遂げました。

その他、〈ムービー〉ではなく、〈映画〉という日本語になって、世界で高い評価を受ける宮崎駿監督のアニメーション映画などは……

いや、〈アニメーション〉は、〈動画〉という漢字表現よりも、〈アニメーション〉のまま、日本人は質の高い作品を世界中に供給していますが、これは特別なケースかと思います。

あるいは〈サッカー〉は、〈蹴球〉という漢字表現……よりも〈サッカー〉のまま普及してしまいました……ね。

〈ケーキ〉は……日本語の漢字表現もないのに普及しています……

 

えーと……こう考えてきますと、日本人だからこそ、欧米人を凌駕するほどの〈コミュニケーション能力〉を身に付けられるのではないか……な?

 

最初に考えていたことと、まったく反対の結論になってしまいました……