批判したいときの最終言語

 内閣の新しい顔ぶれに、一部の野党の方の、

「代わり映えしない顔ぶれ」

「刷新感がない」

 てな御意見が報じられていますが、

「そしたら、代わり映えのする顔ぶれって、どんな顔ぶれなんですか?」

「どないしたら刷新感が出るんですか?」

 などと伺いたくなります。

 首相も含めて全員が代わったら、代わり映 えする、ということなんでしょうか。

 言い換えるなら、そうした発言をされる野党の皆さんが政権を握ると、代わり映えがする、ということのように思われます。

 そうなると、刷新感が出てくるということなんでしょか。

 

 そもそも、代わり映えするかしないかなんて、誰が何を基準に決めるのでしょうか?

 刷新感も同様です。

 特に[感]が語尾に付く言葉は、

「すべてあなた個人の感想ですよね」

 といった類の言葉でございます。

 

 それだけではありません。

 [代り映えがしない]

 [刷新感がない]

 というのは、他に批判する言葉を持っていません、という告白かと思います。

 つまり、批判のための材料が思いつかないから、ばっさり切り捨てるような言葉を口にしているだけ、言い換えるなら、思考が停止しているけれど、冷静さを装うために使われる言葉、言うなれば、感情をを隠して相手を批判するための最終兵器、を持ち出しているように感じておりますのは、ワタクシだけでしょうか。

 

 感情を隠して批判するのために使われる言葉は、他にもありそうです。

 [代り映えがしない][刷新感がない]と同義なら[新鮮味がない][目新しさがない]てな言葉もあるかと思います。

 

 他に、

[~が伝わってこない]

[~が感じられない]

 いった言葉も、発言者の感情がそうさせているのであって、客観的な表現ではありません。

 ワタクシなんぞは、

「そないに言わはんるんやったら、しょうがおまへん。さいなら~」

 てなことで、そのまま縁が切れてもええぐらいに思うてあれこれ言葉を尽くすことはいたしませんが、批判の最終言語を用いられると、なんとなくこっちが悪いように感じてしまう方は少なくないかもしれません。(知らんけど)

 

 報道でもプライベートでも、批判したいときの最終言語を御使用になるお方をお見受けすると、がっかりします。

 

 え?

 オマエは使わへんのか?

 

 刷新感のないオチや!

言い換えて遊ぶ

 言い換えると、視点が変わり、真意が明確になります。

 

 金子みすゞさんの『大漁』は、その好例です。

「鰯の大漁で浜はまつりのよう」

 を、

「海の中では鰯の弔い」

 と、視点を変えた言い換えをされています。

 

 夏目漱石先生の『草枕』の冒頭には、

「智に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくにこの世は住みにくい。」

 とありますが、言い換えるなら、

「智に働かなければ角は立たず、情に竿をささなければ流されず、意地を通さなければ窮屈にはならず、とかくにこの世は住みやすくなる」

 という、世渡りの極意を示しています。

 

『便りの無いのは良い便り』

 ということは、言い換えると、

『便りがあったら良くない知らせ』

 ということになるでしょう。

 

『三人寄れば文殊の知恵』

 は、言い換えるなら、

『一人ではよい知恵は得られない』

 ということです。

 

『下手の考え休むに似たり』

 は、言い換えると、

『上手の考えは休んでいるようには見えない』

 てなことになりそうですが、真意は、

『下手な奴は考えるな』

 ということです。

 

『天災は忘れた頃にやってくる』

 は、

『忘れなければ天災はやってこない』

 ではなく、

『備えあれば憂いなし』

 が言い換えた言葉になります。

 

『信じる者は救われる』

 という言葉をそのまま言い換えると、

『信じない者は救われない』

 てなことになりますが、

『救われた者は信じた奴や』

『救われへんかったモンは信じなかった奴や』

 なんて言い変えもできそうに見えて、

『信じろ!』

 という命令形を、それとはわからぬ脅しに言い換えた表現やないかと思います。(知らんけど)

 

 昔の、いわゆる反社会勢力の方がよくお使いになった、

『月夜ばかりと思うなよ』

 なんてセリフを言い変えますと、

『月の見えへん夜もある』

 てなことになるわけではありません。

 

 先日、ある人が、

「誰か来たら起こしてください」

 と言うてお昼寝を始められましたので、

「誰も来なかったら起こさないでください」

 ということやと置き換ええてそのまま起こさなかったら、夜中にお目ざめになって、

「もう、こんな時間や。なんで起こしてくれへんかったんや!」

 とお怒りになりました。

 

 とかくにこの世は、住みにくうございます。

『終わりよければ繰り返す』

 『終わりよければすべてよし』

 という言葉は、

「結果がよかったら、それまでのミスを問わなくてもええやおまへんか~」

 てなことかと思います。

 つまり、

「反省なんかしません」

 なんてことでもあるかと思いますが、プロフェッショナルなスポーツ選手でそのようなお方はいらっしゃらないのではなないかと思います。たとえ勝利を収めたとしても、ミスをやらかした選手は、それぞれに後悔し反省し、また精進を重ねることになるでしょう。

 

 ところが、これが企業、組織の、特に安全にかかわるシステムになりますと、そうはまいりません。

 いわゆる、[ヒヤリハット]と呼ばれる事象がございましても、

「事故になれへんかったさかいに、よかったやないか」

 と見逃していたら、いずれえらい惨事につながる例は、世間によく転がっています。

 

 そんな場合は、

 『終わりよければすべてよし』

  てな安易な言葉ではなく、

 『終わりがよかったらそれでええんか?』

  という問いかけが必要になるのではないかと思います。

「いや、ヒヤリハットがあったさかいに、やっぱり検証せなあかんやろ」

 なんてことで、反省することによって、最初の準備に問題があったのではないかと結論付けられると、

『始め(準備)よければすべてよし』

 などと言うことになるかもしれません。

 でも、結果が伴わなければ、よし、とすることは、やっぱりできません。

 

 ほんで、

「始めと終わりがよかったら、それでええんか?」

 なんて意見が出てまいりますと、

『結果よりプロセスが大事だ』

 てなことを言うモンが出てきます。

 さらに、

「最初も終わりもプロセスも大事やろ。要はパーフェクトでないといかんのや!」

 なんて力説するモンも出てきます。

 そしたら、

「そないにかたいこと言わんと、結果がよかったらそれでええことにしまひょ。『終わりよければすべてよし』という言葉もありますやおまへんか~」

 てなことを、また物知り顔に言うモンも出てきます。

 そないなことを繰り返しておりますうちに、ヒヤリハットが惨事につながっていくという教訓が生かされなくなります。

 教訓が生かされなくなることを、

『歴史は繰り返す』

 というのでございます。(知らんけど)

 

 オチがあればすべてよし。

 

 え?

 無理矢理オチをつけるな!

思考力を強化する~どっちもある迷言を考える~

 ペズルさんの『どっちもある名言集』(ライツ社)は、一つのテーマについて、相反する名言を並べた書籍です。

 たとえば、

[あきらめるな](エジソン)

[あきらめよう](フロイト)

 が、キャッチコピーで表紙に記されています。

 

 この本があれば、しばらくブログのネタに困ることはないだろうと思いながら、

[物事を安易に使いまわしてはいけない]

 と思う反面、

[人でもモノでも使えるうちは使い倒せ]

 などという言葉も浮かんできました。

 でも、この二つは、ワタクシが思いついただけの言葉で、誰かが残した名言ではありませんから、『どっちもある名言集』に記載されてはいません。

 そんな言葉、名言にはなっていないけれど、日常でありそうな正反対の表現を考えてみると、もしかしたら、思考力の強化の足しになるかもしれません。(知らんけど)

 

 たとえば、

[嘘はつくな]

 に対して、

[真実を告げてはいけない]

 なんて言葉は、並んでいてもよさそうです。

 

 たとえば、

[手を差し伸べなさい]

 とあれば、

「足を引っ張れ」

 なんて言葉を並べると面白うございます。

 

 たとえば、

「人のふり見て我がふり直せ」

 てな言葉はありますが、

「我がふり見せて人正す」

 なんてどないでっしゃろ。

 

 たとえば、

[虎の威を借りる狐]

 という故事成語には、

[狐の皮を被る虎]

 なんてどないですか?

 

 たとえば、 

[寝言は寝て言え]

 てな言葉には、

[仕事中にいびきはかくな]

 え? 反対になっていない?

 

 たとえば、

[義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい浮世かな]

 てな健さんみたいなことを言う輩には、

[義理と人情に錘がついて、身動きかなわぬ浮世かな]

 ああ、こりゃこりゃ!

 

 たとえば、

[なくて七癖人の癖]

 には、

[やって三回癖になる]

 これもゴロを合わせているだけやないかい!

 

 たとえば、

[思案に余る]

[こしあん余る]

 

 たとえば、

[途方に暮れる]

[魔法にかかる]

 

 たとえば……

ぼか! どす! ごん!

道で表現力に磨きをかける?(ああ、こりゃこりゃ)

 表現力に磨きをかけようと思うなら、たとえを考えるのが、一つの道かと思います。

 手っ取り早いのは、この「道」でしょう。

 

 よく見られるのが、人生を道にたとえる表現です。

「君の行く道は、果てしなく遠い。」

 と歌う『若者たち』(作詞・藤田敏雄先生 作曲・佐藤勝先生)が、その好例かと思います。

 

 高村光太郎先生は、『道程』で、

「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」

 と述べて、自分がこれから取り組もうとすることを表現しています。

 

 魯迅先生は『故郷』で、希望を道にたとえています。

 歩く人が多くなれば道になる。希望も、望む人が多くなれば実現する。

 

 原作・小池一夫先生 作画・小島剛夕先生の『子連れ狼』では、貪欲と怒りの川に挟まれた仏の道を表す二河白道(にがびゃくどう)、修羅の道なんて言葉が出てまいります。

 

 柔道、剣道、合気道、武道も道です。

 茶道、華道、書道など、日本の文化も道です。

 いずれも、極めなければならない、まさに終わりなき道です。

 

 人道は人の道ですが、ちょいちょい阿漕な連中を指して、人の道に外れた輩と表現します。

 また、人道支援なんて言葉がニュースなんかで目につきますが、もともと人の道に外れた争いを起こさなければ、そうそう使われる道ではないように思います。

 

 まっとうな生き方をしていない人は、自ら裏街道を歩くと言います。

 紆余曲折の人生だと、道草を喰った、なんて表現も使われます。

  

 最近の道は、大雨で川になり、人も車も呑み込むことが判明しました。

 まっとうな道を歩いているつもりでも、油断はできません。

 

 さらに、道には補修工事が施されますから、わたくしども人間も、年度末に補修が必要になるかもしれません。

 

 ワタクシ、近ごろ、道を見失っていますが、どの道、知れていますから、けもの道でも歩きましょうか、それとも道なき道を行きましょうか。道なき道は、未知に続いていそうです。

 ああ、こりゃこりゃ!

不徳の致すところ論

 秘書、マネージャーの女性二人に対する暴行の罪に問われたデビ夫人が、最終意見陳述で、

「不徳の致すところ」

 と述べたという報道がありました。

 

 選挙に敗れた政治家も、

「不徳の致すところ」

 を敗戦の常套句にしています。

 

 政治家に限らず、不祥事が起きたときに、

「不徳の致すところ」

 を口にされるお方は少なくないようです。

 

 これって、

「悪いのは私という人間でございます」

 ということを否定して、

「いや、ちゃいまんねん。悪いのは、私やなくて、私の不徳ですねん」

 てなことを言うてるんやないかと思います。

「ほな、あんたに徳が備わっていたんやったら、こないなことにはなれへんかったんか」

 なんてツッコミを入れることもできるかとも思いますが、デビ夫人の場合、かなりの御高齢ですから、その歳で徳が備わってへん、っておっしゃるんやったら、

「いつになったら徳が備わってこんな事件を起こさんようになりますんや」

 と問うてみたくなります。

 もしかしたら、どれだけ年齢を重ねても、徳など備わらない御仁もいらっしゃる、なんてことかとも思います。

 

「あの人は人徳者じゃ」

 てな台詞が、人を称賛する言葉として用いられているとことを思えば、徳の備わらんまま生涯を閉じるお方が、圧倒的マジョリティと考えることができそうです。

 そやさかいに、

「不徳の致すところ」

 という言葉は、

「皆さんも、そうでっしゃろ」

 なんて感覚で、頻繁、かつお手軽に使われているのではないでしょうか。(知らんけど)

 

 そもそも、どなたが、何を基準に、どのように徳を認定するのか、なんてところからして不明であると考えるなら、[徳]なるモノは、幻想であると考えられます。

 ですから、何ぞやらかしてしもたときに、

「不徳の致すところ」

 を振り回して、自分の責任を逃れているお方がぎょうさんいてはるのではないかと思います。

 

 てなことを申し上げますのも、ワタクシの不徳の致すところでございます。

 

 

愛情の成立条件

 遠距離で暮らす父親からの毎日の電話を、子どもらが疎ましく思っている、てな話を小耳にはさみました。

  自分は子どもに愛情を注いでいる、と思っておられる親御さんの中には、勘違いされていらっしゃるお方も存在しているように思います。

 たとえば、どれほど愛情を注いでいるつもりでも、

「どうして私の愛情がわからないの」

 と、子どもにもどかしさを感じておられる方も少なくないように思います。

 また、ストーカー行為に及ぶ輩の、自分は相手に愛情を捧げている、という思いが一方的でしかない、ということは、周知の事実かと思います。

 愛情をストーカーは曲解し、愛情を注いでいるつもりの親は誤解しています。

 愛情とは、一方的に相手に投げつけていいものではなく、相手が受け取ってはじめて成立する感情です。

 つまり、親が愛と信じた言動を子どもが受け取らなければ、そこに愛情は存在しない、ということです。ストーカー行為はその極み、拒絶です。

 ついでに申し上げるなら、親の愛情の表し方、たとえば、なんでも買い与えることが愛情の証であるという受け取り方をしてしまった子どもは、それ以外の愛情表現を知らずに大人になるでしょう。(知らんけど)

 もちろん、

「あのときは、ほんとうに私のことを思ってくれていたんだ」

 というように、与えた側と受け取る側の時間差もあります。

 でも、基本的には、与える、受け取る、双方の意識が、愛情には必要かと思います。

 

 ボケとツッコミ、いじる側といじられる側の関係も同じです。

 受け取る立場にある者が、不快を感じる、あるいは納得していなければ、その関係は成立しません。

 

 親子関係や、ボケとツッコミ、いじるいじられる関係において、もっとも重要なことは、相互に愛情の交換が成立しているかどうか、さらに言うなら、お互いに尊重する精神を持っているかどうか、というところにあるように思います。

 

 お金を渡すだけという行為はもちろん、毎日の電話という方法だけで、愛情は育まれません。(知らんけど)

 

 てな、理屈を、己を省みることなく、今日もこねてしまいました……