相手によって態度を変えていい独善的芸術論

生徒は、先生によって態度を変えます。

厳しい先生の前ではおとなしくしていても、そうでない先生の授業ではいくら注意されても言うことなんか聞きません。

そこで、

「お前ら、相手によって態度を変えるんやな。そしたら、オレもそうするぞ」

という先生がいらっしゃいますが、これでたいがい生徒はおとなしくなります。

 

でも、改めて、

《相手によって接する態度を変えてはいけないのか?》

という質問を投げかけてみるとどうでしょう。

 

上司の前では殊勝なエスマンでも、部下の前では暴君のごとく理不尽な振る舞いに及ぶ人間を見かけることもあるかと思います。

 

でも、文章を書くときには、相手によって態度を変えなければなりません。

作文コンクールの学校代表に選ばれる小学生は、学校の先生の喜びそうな文章を考えて書くそうです。

大学のAO入試や推薦入試で課される小論文で、課題に関係ない志望動機を成り行きで結論に書いてしまっては、高い評価は得られません。

相手が何を求めているか、ということを考えなければならないということです。

 

小説の新人賞や文学賞では、審査員が誰かという点を考えて、その審査員の作品の傾向に合わせて書こうとする方もいらっしゃるようですが、そういった賞の主催者が求めているのは、既成の小説にはない作品で売れる、あるいは話題性のある小説というケースが多いようですから、審査員の作品の真似をしたような応募作品が受賞することはまずありません。

 

ということで、某文学賞に応募しようかと思って考えた小説を例の友人に読んでもらったところ、

「キミらしいオリジナリティあふれる作品だね」

と、珍しくほめてくれましたので、

「タイトルをどうしようかと考えあぐねているんだけど、何かいいアイデアがあれば教えてほしい」

と意見を求めると、

「『独善』なんて、どう?」

「え? それはどういうこと?」

「もっと読み手のことを考えろってことだな。こんな独りよがりの小説を読まされる身にもなってみろよ」

「えーと…… 小説に限らず、芸術なんてもともと独りよがりなものなんじゃないかと思うんだけど……」

「キミの場合、だから、新人賞が獲れないんだろうな」