人生の視点を変える方法

スイーツを食べている人が、

「クリームが手についた」

と言うと、隣の席に座っていた人が、

「手がクリームについた」

というやり取りに接しました。

 

多くの電車では、

「まもなく、ドアが閉まります」

とアナウンスしていますが、まれに、

「まもなく、ドアを閉めます」

とアナウンスされることがあります。

 

「皿が割れた」

「私が皿を割った」

 

「ランナーが走った」

「ピッチャーが走られた」

 

「資金がなくなった」

「私が資金を使い果たした」

 

多くは、それぞれの立場を擁護するような責任の所在に関わる表現として注目されますが、新たな視点を持つという観点として焦点を当てることも可能かと思います。

 

「歌がヒットした」

「歌手が歌をヒットさせた」

「詞がよかった」

「曲がよかった」

「プロデュースがよかった」

「タイミングがよかった」

 

「新商品が売れなかった」

「作成者が売れないものを作った」

「販売員が売り切れなかった」

「社長が判断を誤った」

「タイミングが悪かった」

 

いろいろ主語を変えて考えていくと、次の一手も見えてくるのではないかと思います。

これは、仕事だけではなく、人生においても言えるのではないかと思います。

 

「相手が悪かった」

「私が悪かった」

一方に偏った見方ではなく、双方をバランスよく考えることが、大切ではないかと思います。

 

これを、例によって例の友人に話しましたところ、

「その結果が、キミの人生ということだね」

と言われましたので、

「私の人生が、この結果を招いたと言ってもらいたい」

応用できる表現の条件

今日、 職場の女性が、

「ノースマイル ノーライフ」

と、おっしゃていました。

 

この、

「ノーなんちゃら ノーほにゃらら」

という表現で連想いたしますのが、平成の一号ライダー、仮面ライダークーガの主題歌(歌・田昌之さん 作詞・藤林聖子さん 作曲・佐藤秀彦さん 日本コロンビア)にあります、

「ノーペイン ノーフェア」

というフレーズですが、最近は他にも、

「ノーライフ ノーミュージック」

「ノーマネー ノーライフ」

など、いくらでも応用が利く表現として活用されているようです。

 

その元は、

「ノーペイン ノーゲイン」

と、韻を踏んだ表現のようです。

 

世の中に出回る言葉の基本的条件は、その内容の善し悪しではなく、

〈韻を踏んだ対句表現〉

かと思います。

 

 かのレイモンド・チャンドラー氏が生み出したフィリップ・マーローの、

「強くなければ生きられない。優しくなければ生きる資格はない」

も、一世を風靡した言葉で、これも、いろんな応用表現を生み出しました。

 

「飲んだら乗るな。乗るなら飲むな」

という標語も、同様です。

 

ということで、本日は、

「オチがなければ面白くない。面白くなければ書く資格はない」

「ノースマイル ノーパフォーマンス」

 

やっぱりオチませんでした……

王様、あなたは、今、しあわせですか?

某三代世襲国家の、あっと驚く肉親正男氏暗殺報道に、アタクシ、太宰治先生の『走れメロス』に登場する暴君ディオニスを思わず思い出してしまいました……

(思わず思い出す?)

 

猜疑心にまみれたディオニス王は、側近はもちろん、家族でさえ信用していません。

どこでどんな人生を歩んでそんな人間観に至ったかはわかりませんが、

「王様、あなたは、今、しあわせですか?」

と問いかければ、答えは、

「ノー」

でしょう。

 

ところが、幸いにと言いますか、ディオニスは、単純な正義感に凝り固まった牧人メロスと、毎度その尻拭いをさせられているであろう献身的な友人セリヌンティウスによって、無事にと申しますか、いとも簡単にと申しますか、とにかく、眉間に深く刻み込まれたほどの人間不信から、信じる人たちの世界への宗旨替えに成功しました。

この段階で、

「王様、あなたは、今、しあわせですか?」

と、問えば、おそらくは、これまで死刑に処してきた人々に対してどのように償っていくのかというところには目をつぶって、

「しあわせ〜!」

てな答が帰ってくるのではないかと思います。

 

ただ、まあ、小説でございますから、あとあと報復で暗殺されるてな続編を誰も書かなければ、めでたしめでたしなんて終り方でもいいように思いますが、これまでさんざん粛正を繰り返してきた某三大世襲国家の元首は、

「王様、あなたは、今、しあわせですか?」

と、問いかけても、たやすく宗旨替えできるわけでもありませんから、猜疑地獄の中で生き続けなければならないように思います。

 

いなみに、王様ではありませんが、

「あなたは、今、しあわせですか?」

と改めて問われましたら、アタクシ、

「権力もお金も持っておりませんが、猜疑心に苛まれていない分、しあわせでございます」

なんて答えることになるかと思います。

でも、猜疑心に苛まれてもええさかいに、権力と財力を、一度は手にすることがでけたらええなぁ〜

お菓子の『うまい棒』のキャラクター、〈うまえもん〉に、〈うまみちゃん〉という妹が誕生したそうです……

いえ、いたという設定だったそうです……

 

あの、藤子不二雄さんのドラえもんの妹がドラミちゃんですから、よく似たネーミングと言えるかもしれません。

 

ただ、妹分を誕生させるというのは、キャラクター販売では一つの方法として定着しているようです。

 

アイドルグループでも、後発グループを妹分として売り出していますが、弟分として売り出しているグループは、存在しないのではないかと思います。

 

かつて流行したフォークソングでも、かの南こうせつさんの『妹』(作曲・喜多条忠さん 日本クラウン)を筆頭に、妹を歌ってヒットした歌がいくつかあります。

内藤やすこさんの『弟』(作詞・橋本淳さん 作曲・川口真さん 日本コロンビア)もありますが、やはり妹の方が郷愁を誘うようです。

 

ただ、アタクシ、個人的には、ちょっと妖しい雰囲気で、隣のお姉さん…… なんてところがええんやないかと…… 

2月14日は〈ふんどしの日〉じゃ〜!

今日、2月14日は、〈ふんどしの日〉です。

ふ(2)んど(十)し(4)の語呂合わせで、制定されているとのことで、日本ふんどし協会では、2022年までに日本人全員が一着はふんどしを持っている世の中にすることを目標にしているそうです。

 

着衣は、食べ物と同じく、それぞれの国の文化の基盤となるものです。

それは、たとえば、

『ふんどし祝い』

は、

「成人した男子が初めてふんどしを締める時にした祝い事」

という意味を表す言葉で、

「十分に気持ちを引き締めて物事に着手する」

という意味を表す、

『ふんどし(褌)を締めてかかる』

という言葉や、

「難事などを前にして、心を引き締めること」

という意味を表す、

『緊褌一番(きんこんいちばん)』

という言葉などがあります。

 

これらの言葉から考えますと、ふんどしというのは、日本男児の精神と非常に緊密かつ、重要な関係にあるということがわかります。

 

ちなみに、ふんどしは百貨店で扱っているそうです。

 

ほんで、なんで、2月14日を〈ふんどしの日〉やと言うてわざわざ話題にするのかということにつきましては、突っ込んで質問しないでください。

やっぱり、バレンタインデーとするには、今日はあまりに辛い一日になりましたから……

清水富美加さんを擁護します!

タレントの清水富美加さんが芸能界引退と幸福の科学への出家を電撃発表して、所属事務所はもちろん、CMスポンサーやら今後の仕事やら、いろんな人に迷惑をかける等、芸能界各方面から批判されています。

引退理由についても、納得されている方はあまりいらっしゃらないようです。

 

でも、世間にはそういう例は結構転がっております。

それまで、別に辞めるような素振りを見せていなかった人が、ある日急に辞意を表明してその日から来なくなる、人によっては無断欠勤からそのまま仕事に来なくなる、というケースを、いくつかアタクシも存じております。

存じているというだけでなく、実はアタクシもそんなことをやってしまったという過去を、告白いたします。

尋常ならざる迷惑をかけてしまうことを承知しながら、それでも敵前逃亡的に逃げなければ自分が潰れてしまうという状況でした。

おかげで、自分の限界を知ることもできたわけで、

『明日でええことは今日するな』

という第一モットーの次に、

『三十六計逃げるに如かず』

を第二モットーにしている次第でございます。

 

おそらく、清水さんもご自分の中でのっぴきならない状況に陥っていらっしゃるのかもしれません。

それを、本人でない関係者にわかってもらえるはずはありません。

 

ただ、アタクシの場合は、著名人ではありませんから、他所では逃げて迷惑をかけた前科は、口を拭ってしまえば問題はありませんが、清水さんの場合はそうはいかないかもしれません。

まあ、宗教団体がずっと彼女を引き受けてくれるでしょうから、やっぱり問題はないかもしれません。

 

え?

(清水さんをダシにして自己弁護するな!)

 

虎の威を借る『嫌われる勇気』

岸部一郎氏と古賀史健氏の『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)をベースにしたフジテレビのドラマ『嫌われる勇気』に、一般的なアドラー心理学の大きく異なる見解を広める、として〈日本アドラー心理学会〉が、番組の中止、あるいは脚本の大幅な見直しを求める抗議文を送ったそうです。

 

『嫌われる勇気』が出版されていることは承知しておりますし、そのタイトルでドラマが放映されていることも知っておりますが、アタクシは本を読んでもおりませんし、ドラも見ておりませんから、内容に関するコメントはできません。

ただ、ドラマ性のない心理学を扱った書籍を、どのようにドラマに仕立てるのか、という疑問は、かつて、世の中のいろんな職業を紹介した、村上龍氏の『13歳のハローワーク』がミリオンセラーになって、ドラマが制作されたことと同じではないかと思いました。

たぶん、ドラマ性のない書籍をドラマ化するということは、その書籍に触発されて、まったく別の作品を作り出した、ということではないかと思います。

 

ベストセラー小説でも、映画化されると、作者は、

「原作とは別物」

と切り捨てることがあります。

ですから、ドラマや映画の制作者は、

「安易にベストセラーに便乗するのではなく、正直に、その作品に触発されて、こんなドラマや映画を創ってみました〜!」

と、そのまんまの原作ではありませんよ〜、と正直に述べるべきかと思います。

 

あるいは、『竹取物語』を下敷きにした、スタジオジブリ高畑勲監督の『かぐや姫の物語』のように

「こんな解釈を試みました〜」

と、喧伝すべきかと思います。

 

でなければ、仮に著名な何かを下敷きにしていたとしても、それと知られぬように映像化するのが、潔いようにも思います。

 

てなことを、例の友人に話しましたところ、

「でも、キミも権力者や著名人、あるいは世間体のよい肩書きに寄りかかろうとしているよね。そかも、世間に覚られれないように……」