もしかしたら、電車内で高齢の方に席を譲るシーンが、以前より見られなくなったのではないか、と思うときがある。乗客のほとんどが、スマートフォンを見て周囲の変化に気づかないからではないか、と勝手に解釈している。さらに、電車内を一つの社会と仮定すると、人々が周囲に注意を向けない社会に変貌していることをこの現象は示唆しているのではないか、という仮説は、もしかしたら見当違いかもしれない。
もしかしたら、その人たちはスマートフォンを見ることによって無駄な時間をなくしているつもりなのかもしれない。あるいは、暇つぶしにゲームに興じているだけのかもしれない。誰かとつながっている証しとなる連絡をスマートフォンに期待しているのかもしれない。誰かと共有できる、何か面白い、あるいは実用的な情報を探しているのかもしれない。いずれにしろ、スマートフォンを見ることで、周囲への注意力が殺がれる。
しかし、以前は、新聞を読んだり本を読んだり、あるいは寝ている人がいて、その人たちは周囲に注意を払っていない人たちではなかったか、と言われるかもしれないが、おそらく、注意を払わない人が圧倒的に増えていると思われるのは、かつてスマートフォンが出現する以前の、新聞や本を読んでいなかった人の情景を思い出して、今、目の前にいる、スマートフォンを操作していない人の数を比べると、「みんなスマホばっかり見ているなぁ」という印象を持つのではないだろうか。
もう一つ、寝ている人が少なくなったように感じるが、これは、席を変わりたくない人のポーズが、スマホで気づかなかったという態に変わったためではないかという見解には、非難があるかもしれない。
しかしいちばんの問題は、スマートフォンによって周囲に注意が向けられないために危機対応が遅れることである。近年、まったく見ず知らずの人間によって不意に害を加えられる報道がときどき耳目に触れるが、「こいつ、ちょっと危ないかもしれない」というセンサーがスマートフォンによって働かなくなっているのではないか、という考察は、もしかしたら間違っているかもしれない。
スマートフォンが人々の集中力を殺いでいるという指摘は、すでになされているところだが、逆に、スマートフォンに集中することで周囲に注意が向かない、あるいは向けようとしないことによる弊害について警鐘を鳴らす言説は、寡聞にしてワタクシは知らない。あるのは、「スマホ歩きはやめましょう」という具体的な啓発である。
スマートフォンは、危機に関するデータは即時に提供してくれるが、すぐそこで発生するかもしれない、特に人間が元凶となる危険を教えてはくれない。ばかりか、本来、人間に備わっているはずの、身近に発生するかもしれない危険を察知する能力を奪っているのである。天候や地震といった災害に関わるデータをいくら提供してもらったとしても、それと引き換えに自身に備わっているはずの危険察知能力が奪われてしまったとしたら、人類は滅亡するのではないかというワタクシの主張は、飛躍しすぎかもしれない……