新幹線殺傷事件と袴田さんの再審取り消し決定

新幹線で殺傷事件を起こした人物について、いろいろな報道が出ているようです。

 

ごく簡単に、乱暴な言い方であることを承知の上で、もしかしたら非難されることも覚悟の上で申しますと、

 

〈社会とのつながり(他者との関係)がうまく構築できなかった〉

 

自尊感情を失っていた〉

 

ためではないかと思います。

 

人間が罪を犯さない理由は、

 

《他者に迷惑をかけたくない》

 

《大切なものがある》

 

《自分はそんな人間ではない》

 

という三つに集約されるそうです。

 

筒井康隆先生は、自分が人を殺すかもしれない人間だという認識をお持ちだそうですが、自分は罪を犯さない人間だと漠然と思い込んでいるよりも、

 

〈社会(他者)との関係性〉

 

 

自尊感情

 

のありようによっては、罪を犯す人間になってしまうかもしれないという認識を保持している方が、人間は健全かもしれないと考えますアタクシは、不健全でしょうか……

 

え?

(そんなんに関係なく不健全!)

 

ところで、1969年に静岡県で発生した強盗殺人事件で死刑が確定していた袴田さんの第2次再審請求で、東京高等裁判所は再審開始を認めない決定をしたと報じられました。

 

真偽はともかく、裁くこともまた、罪を犯すかもしれないことでもあるかと思います。

 

個人的に他者を裁く、言い換えると、一方的に誰かを、例えば罪を犯したとされる誰かを、もしくはその家族や関係者を批判、非難する場合、私たちは罪を犯すかもしれない、犯しているかもしれない、という認識を持つ必要もあるように思いますが、どないでっしゃろ……

 

え?

(「どないでっしゃろ」てなことで、オチのないことをごまかすな!)

 

失礼しました。

筒井康隆先生の《諧謔》の技法〜西遊記編〜

筒井康隆先生の『創作の極意と掟』(講談社文庫)には、

 

諧謔

 

という項目もあります。

 

例として第一番に夏目漱石先生の『吾輩は猫である』を挙げられ、〝比喩による上品なユーモア〟があるのは、〝英文学の知識によるイギリス風ユーモア〟を

 

〈自家薬籠中のもの〉

 

としているからであると述べ、

 

弓館芳夫氏の『西遊記』によって、

 

〈沈魚落雁羞花閉月〉

 

という美人を形容する言葉を知ったと語られたところは、アタクシも教養を滲ませる言葉として拝借しようと思いますが、好意をよせる女性に、

「あなた〈沈魚落雁羞花閉月〉です」

なんて申し上げても〈自家薬籠中のもの〉になっておりませんから、やっぱり袖にされるのがオチかもしれません。

 

あるいは御自身の『魚籃観音記』で、悟空と観音様の情事を見ようとして仏陀までが下駄履きでのぞきにりたため、皆が、〝ブッダマゲタ〟という駄洒落や、同じくご自身の作品から引用された、

「あれが火事だということは、火を見るよりも明らかじゃ」

なんてのも、どこぞで使わせてもらいたいと思っておりますが、もし著作権料を払えと迫られたら困りますので、ブッダではなく、小津田という方がゲタを履いて、〝オッタマゲタ〟にし、火事を家事に変えると、大丈夫なのではないかと……

 

言葉や駄洒落だけでなく、最近、ブログのネタに困って筒井康隆先生の御本の中からあれこれ使わせてもらっております。

ほんとうに感謝の気持ちでいっぱいでございます。

 

でも、まだ使えそうです……

《そこまで言って委員会NP》〜教養あふれる対句表現〜

ほんとうに久しぶりに《そこまで言って委員会NP》(読売テレビ)を視聴いたしました。

 

桂ざこば師匠のお姿がいつもの席にあって、

「ああ、よかったなぁ……」

と思いながら、本日のテーマは、米朝会談を控えての、

 

〈米中露三すくみスペシャル〉

 

例によって、専門家を交えた討論はまことに見応えがございました。

 

何がよかったのかと申しますと、フィフィさんの御著書の紹介から始まった、

 

《ハラルとハーレムの語源は同じ》

 

というところと、シンガポールに向かった金総書記の乗った飛行機、イリューシンが無事にシンガポールに着いたら、

 

イリューシンがイリュージョンになる》

 

てなところと、

 

《アメリカは偽善的でロシアは独善的》

 

なんて、対句的な表現でございました。

 

専門家による現状の紹介やそれらから考えられること、また、そうしたことについて出演者それぞれの意見が交わされる中で飛び出すこうした表現からこそ、教養あふれるコミュニケーションの秘訣が垣間みられるのではないかと思います。

 

先日、ある女性と歩いておりまして、ちょっと躓いて転びそうになりましたから、

 

「歩いているときには転ばないように気をつけて、しゃべっているときにはすべらないように気をつけています」

 

と申しましたら、その女性は通りすがりに追い抜いた他人のようにアタクシの傍から離れてゆかれました……

 

同じ対句的な表現なのに、いったいどこが間違っていたのでしょうか……

筒井康隆先生の《蘊蓄》の技法〜ゴルゴ13編〜

他の小説指南書では触れられていないけれど、筒井康隆先生の『創作の極意と掟』(講談社文庫)にございます項目の一つが、

 

《蘊蓄》

 

でございます。

 

〈蘊蓄というものは本来、文学作品にあっては表現の多様性に奉仕するものでなければならず、エンタメ系の作品にとってはあくまでリアリティ乃至面白さに奉仕するものでなければなるまい。蘊蓄が豊富であればあるほどそれは作品が最も必要とする部分だけを効果的に述べることによって、神の宿る細部となるのであろう。経済機構のことを知る目的で城山三郎をよむ人はいないのだ〉

 

と述べられた上で、それでも小説の本筋と関わりなく蘊蓄を面白く読ませる作家、たとえば丸谷才一先生や池波正太郎先生の名を記されています。

 

小説に限らず、

 

《蘊蓄》

 

の扱いには注意が必要です。

 

コミュニケーションの場において、自ら語る誘惑に負けてはいけない一方で、相手のそれには耳を傾ける姿勢を見せなければなりません。

 

本日9日のゴルゴ13の日めくりカレンダーには、

 

《長話は無用だ。YESかNOで答えろ》

 

とあります。

 

これに、

 

《余計な蘊蓄はいい》

 

てな台詞がついていた話もあったように思いますが、相手に蘊蓄を語らせない力量がない者には、丸谷才一先生や池波正太郎先生のような、蘊蓄を面白く読ませる、もしくは聞かせる術が必要かと思いながら、それができないアタクシは、ただただ傾聴に徹するばかりであります……

 

え?

(ウソつけ! 人の話も聞かんと、しょうもない話ばっかりして、皆をうんざりさせてるやないかい!)

 

失礼いたしました……

サワコの朝から〜大泉洋さんのお話から〜

今朝の《サワコの朝》(MBS)のゲストは、俳優の大泉洋さんでした。

 

お母様が車に乗っている時に、音楽ではなく落語のテープをかけていらっしゃって、

「それで子供の頃、落語にはまって……」

と話されたときに、

「子供に落語はわからないのでは……」

と佐和子さんが返されましたが、実は、子供に落語は分からないというのは、大人の思い込みでしかありません。

別に、テレビでやってた寿限無が流行したから…… なんてことが理由ではありません。

 

アタクシが落語に触れましたのは、中学のときでしたが、あの田舎家かかし師は小学校3年だか4年だかで落語の面白さを悟ったそうです。

 

他にも、子供の頃から落語をされていた方もいらっしゃいます。

 

落語の面白さは、理解するものではなく、感じるものではないかと思います。

 

「細かいところはなんやようわからんけど、面白い……」

と感じ取る、つまりそういう感性があるかどうかではないかと思います。

 

「落語は古い話やさかい、その時代の知識がないといくら聞いてもわからん」

 

てなことをおっっしゃる方は、たぶん、そうした感性をお持ちでない方ではないかと思います。

 

別に本日の大泉洋さんに限りませんが、

「この方は、楽しむ感性をお持ちの方なんやな……」

なんてことを思いました。

 

ですから、アタクシも……

 

え?

(周囲の人も巻き込んで楽しむ感性を持っている人と、自分だけ楽しいと思うてるアンタの感性はちゃうで!)

〝二の〟用法

昨夜の『未解決の女』(ABCテレビ)最終回の最後に、

「汚名は挽回するものではなく、返上するもの。挽回するのは名誉」

てな台詞がありまして、そこで初めて、

 

《汚名返上》

《名誉回復》

 

これが正しくて、もしかしたら間違って使っていたことに気づいた方がいらっしゃったかもしれません。

 

よく間違われる言葉としては、他に、

 

《二の足を踏む》(たけらい、尻込みすること)

 

 

《二の舞を演ずる》(前の人の失敗を繰り返すこと)

 

があるそうですが、

 

《二の舞を踏む》

 

と、言い間違えても、

(前の人の失敗を見て尻込みすること)

てな意味にはなりません。

 

《二の足を演ずる》

 

も、

(尻込みを繰り返すこと)

にはなりません。

 

《二の句がつげぬ》(驚き、あきれて次に言うべき言葉が出ない)

 

 

《二の矢がつげぬ》(同じことを繰り返す力が残っていないこと)

 

 

も誤って使われているかもしれません。

 

毎度、こんなkとばかり述べておりますブログですから、読むのは、

 

《二の次》(あとまわしすること)

 

なんて方もいらっしゃるかもしれませんが……

 

ブツ ピー……

 

切らんといてください!

筒井康隆先生の《羅列》の技法〜文春&新潮編〜

筒井康隆先生の『捜索の極意と掟』(講談社文庫)は、小説を創るための作法や技法を記したこれまでの同種の書籍とは、一味も二味も違う、まさに筒井康隆先生の面目躍如といった創作指南書であります。

その中の項目の一つに、

 

《羅列》

 

があります。

言葉の羅列によって、

 

《恐怖や熱気や怪奇性を高める》

 

ことができるそうで、たとえば五木ひろし先生の〈よこはま・たそがれ〉(作詞・山口洋子先生 作曲・平尾昌晃先生 ミノルフォンレコード)は、羅列で物語を歌い上げた傑作と言えるかと思います。

 

アタクシも、そんなことをやってみたいな、てなことをぼんやり思っておりましたからでしょうか、

 

紀州ドン・ファン覚せい剤怪死22歳妻と謎の家政婦(週刊文春)〉

〈夫婦を引き合わせた「女衒」の同期(週刊新潮)〉

〈妻の紹介者初告白「条件は美人170センチ以上・25歳まで(週刊文春)〉

〈ホスト大好き日人妻(週刊新潮)〉

〈モデル妻は全身シャネル(週刊文春)〉

〈元カレホストと白薔薇復縁(週刊文春)〉

〈愛犬イブ急死で疑われた家政婦(週刊文春)〉

〈家政婦元夫は覚せい剤で逮捕歴(週刊文春)〉

 

売れている週刊誌が、この

 

《羅列》

 

を見事に駆使していることに気がつきました……

 

特に、週刊文春さんが最後に羅列されている、

 

〈水商売時代常連は竹内力

 

に、アタクシ、購入してみようかという気になってしまいました……