同じ仕事に携わっている人、たとえば同僚と、ともに関わる人物、たとえば上司や部下、あるいは取引相手などについて、人物評を交わすことがあります。
「あの人は、自分の考えや思いを覚られないように、単純にふるまっているのではないかと思いますよ」
「いや、それは考え過ぎでしょ。あの人は、単純でわかりやすい人ですよ」
そんなやり取りをしているところを別に見ていた二人が、
「彼はモノゴトを複雑に考えすぎるところがある」
と先の一人を評し、
「彼は、表面だけを見て常識にとらわれた判断しかできない」
と、一方を評します。
「いや、彼はモノゴトの本質にいつも迫ろうとしているんだよ」
と、最初の一人について別の見解が披露されるかと思うと、
「いや、彼は表面的で常識にとらわれた判断をしているわけではなく、不確実な要素を排除して考えようとしているだけだよ」
そんな人物評が的を射ているかどうかは、評されている本人にも判断できることではありません。
先代の円楽師匠ではありませんが、アタクシ、最近は、素行を改めているつもりでも、仕事ではトラブルに見舞われ、女性にももてません。
でも、何があっても、
「ひょうひょうとしていつも面白い人」
と思われていて、多少のことは笑って流しているのだろう、と思われているのかもしれません。
そんなことに遭遇する度に、
「ボクはそんな人間じゃない」
と叫びたくなりながら、
「いっそ『山月記』の虎になってしまえれば、どれほど気持ちが楽になるだろう……」
と、つい思ってしまいますが、
『ちょうど、人間だった頃、おれの傷つきやすい内心を理解してくれなかったように』
自分について、誰が、どんな人物評を下していたとしても、行きつく先は、虎となった李徴のこの告白に尽きるのかもしれません。