障害者を殺傷した植松被告のほんとうの不幸……

相模原市の障害者施設で19人を殺害した植松聖被告に、死刑判決がくだされました。

 

「障害者は不幸を生む」

 

幸せか不幸せか、誰かの価値基準で決められるものではないことを、どこかで誰かが教えなかったのだろうか……

 

でも、世の中の役に立つか立たないかを基準に、障害者に対する差別意識を持っている人は少なくないようです。

 

資本主義社会ではなかった時代、たとえば江戸時代に功利主義はなかったのではないかと思います。

お日様が出てくりゃ起きて仕事して、日が暮れりゃ仕事を終えて家に帰る。

早く仕事を覚えるためには、人からその技術を盗んで、それに己が工夫を加えて一人前になる。

野菜の促成栽培てなもんのなかった時代で、人は自然とともに生きて、功利主義なんて概念なんか爪の先ほどもなかったのではないかと思います。

せいぜい、人様の足手まといにならぬようにそれぞれが身を処していた……

 

世の中の役に立つか立たないか、てなことも、一概に断定できません。

どこかで誰かの心の支えになっているとしたら、存在すること自体、世のためになっちると言えます。

反対に、障害がなかったとしても、世の中の役に立つどころか、世の中に百害あって一利もないなんて御仁なんか、ちょいちょい見かけるように感じますが、世の中の役に立たぬばかりか、百害ですから、不幸を生む、存在に分類できるとしても、植松某はそちらの存在を消滅させようとはしませんでした……

 

ほんとうは、植松被告自身が、自分を世の中の役に立っていない存在だと感じていたのではないでしょうか……

だから、自分が世の中の役に立っていることを証明するために、犯行に及んだのではないでしょうか……

そんな自分の思いを隠したまま、いえ、もしかしたら自分でも気づかないまま、死刑になろうとしているなら……

 

どないして結末をつけようか、どないもならんようになってしまいましたぁ〜

ごめんなさい。