海老一染之助さんの御冥福をお祈りいたします。

かつてお正月と言えば、海老一染之助染太郎さんご兄弟の太神楽で、和傘の上でコマやら升やら土瓶やらを回す芸が定番であったかと思います。

 

20020年にお兄さんの染太郎さんがお亡くなりになってからは、弟の染之助さんがお一人で頑張っておられたようですが、本日お亡くなりになったという報道がありました。

 

「いつもより余計に回しております」

という、お兄さん、染太郎さんの言葉は、今なら流行語大賞にノミネートされたであろうと思われるほど、流行っておりました。

 

居酒屋に何人かで入りますと、

「取り皿、皆に回してくれ」

なんて声がかかりましたときに、その場でぐるぐるお皿を回しながら、

「いつもより余計に回しております」

てなことを申しますと、

「あ〜ほ〜……」

などと、よくやったものでございます。

 

この、

《いつもより余計に回しております》

は、あちこちで使える言葉でございまして、

「ぼちぼち帰り支度をしているところに上司がやってきて、

『これ、頼む』

などと言われて、一応、

『いや、今日はもう帰るところでして、急に仕事を回されましても……』

と言うたんやけど、

『いつもより余計に仕事をまわしております』

てなことを言われて遅うなったんや……」

などと、遅効の理由にも使えましたし、

「洗濯、今日はなかなか終らんな……」

「いつもより余計に回しております」

なんて小話にもできて、ついでに、

「今月、ちょっとお小遣いが足りへんさかいに、なんぼか回して……」

「ほな、いつもより余計にお金を…… 回せるかい!」

 

長年、全力で芸を披露してくださった染之助さんには、お亡くなりになったというよりも、おめでたいお正月を迎える前に芸を仕舞われた、と申し上げた方がよろしいようにも思います。

御冥福をお祈りいたします。

セクハラパワハラいじめ体罰〜世の中の〈根深い問題〉〜

世の中には、〈根深い問題〉とそうでない問題があるようです。

 

たとえば、駅のホームからの転落事故は、ホーウドアの設置やホームのイスの設置方向を変えるだけで、かなり減少したようです。

人間が工夫することで解決する問題に、解決できない根深さはありません。

 

横綱日馬富士関の暴行事件は、大相撲の世界で伝統的に継承されてきた〝教え方〟が〈根深い問題〉となっているのではないかと思います。

スポーツに限らず、教育現場でも〝体罰〟といわれる傾向がまだ見られるいうことも、また、〝いじめ〟が根絶されないのも、セクハラうやパワハラがなくならないのも、〈根深い問題〉だからではないかと思います。

 

もちろん、ちょっとした工夫によって改善されるケースもあるようですが、〈根深い問題〉が何に根ざしているのかがわかっていないと、根絶されないのではないかと考えましたところ、〈根深い問題〉というのは、実は人間の存在自体に根ざしているのではないかと思い至ってしまったような次第で、そうなりますと、人間を消滅させる以外に〈根深い問題〉を根絶する方法はなく、そうでなければ、人間は根絶できない〈根深い問題〉と上手につきあっていくしかしかないということになるかと思います。

 

でも、そうした〈根深い問題〉の根絶を目指して実現をするところに、人間の存在意義があるのかもしれません。

 

こんな大層なことを書くつもりはありませんでしたが、〈根深い問題〉をキーワードに書き始めてしまいましたら、こんなことになってしまいました……

 

アタクシの中にも〈根深い問題〉があるようで……

                                   デンデン

ワンピース〜父と娘のエピソード〜

「小学1年生のとき、国語の教科書を紛失した私のために、母は私の友人から教科書を借りてそれを徹夜で書き写してくれました」

というアタクシの母の話を高座で語ってくださいました上方の女流講談師旭堂南華師は、

「母のエピソードはどこでも受けます」

とおっしゃていました。

 

母に捧げるバラード』の歌手、武田鉄矢さんも、同様のことをおっしゃって、父親の話は受けない、という主旨の話もされていました。

 

これらの話は、父親よりも母親の愛が深いということは、世の中の共通認識となっている証であると思いますが、本日発売の少年ジャンプ(集英社)に連載されている『ワンピース』(尾田栄一郎さん)では、自分が父親であることを知らぬ娘のシフォンを、命を賭して救う父、バウンドが描かれていました。

 

ベッジの船が水陸両用であることや、サンジが蹴ってケーキを船に積んだことや、それを見たプリンちゅわんの姿など、見どころ満載の中で、アタクシ、その父の姿にホロリとさせられてしまいました……

 

基本的に、父親がいくらがんばっても子供は母親のモノであることに違いなく、考えようによっては、バウンドは世の父親を象徴しているといっていいのかもしれません……

 

ということで、本日はオチのつけようがありませんので、これで御容赦ください。

 

 

第52回北日本文学賞二次選考通過作品発表……

北日本文学賞の二次通過作品190余作品が発表されました。

残念ながら、拙作の二次予選通過はなりませんでした……

 

先にも書きましたが、以前からある程度予選に通るぐらいの作品は書いております。

なまじ、中途半端に予選を通過したり、ショートショートコンテストに入選いたしますから、ついつい自分を勘違いしてしまうのが、アタクシの悪いクセになっているようで、だから落選するたびにがっかりするのではなく、

「選考者に見る目がないんだ」

とか、

「これまでにない斬新なアタクシの作品は理解されないんだ」

とか、

「悪いのはキミのほうだ、ボクじゃない……」

式の発想にアタクシの頭は勝手に切り替わってしまいますのは、そこらの責任転嫁上司と同じだということに、ホントウはアタクシも気がついてはいるんですよ……

でも、

《これまでになかった、他者とは違うモノを求める人にはこうした壁はつきもの》

そう思いながら、次の公募作品を用意しております。

 

多分、そんなことを言い続けながら、いえ、ほざきながら、アタクシは一生を終えるんでしょうね…… きっと……

今年の『流行語大賞』と『十大ニュース』

今年の流行語大賞が発表されました。

 

《インスタ映え》はともかく、《忖度》は、日本の社会を象徴する言葉でもありますから、流行語大賞に選ぶべきではないかと密かに思いながら、ベストテンに選ばれた言葉の中で、唯一、《ひふみん》という個人を識別する言葉が選ばれたということは、将棋の加藤ひふみさんこそが、今年の日本を代表する人物であり、その加藤さんを破った藤井余談の活躍こそが、今年の十大ニュースの一つに選ばれるべきではないかと思います。

 

本来、言葉というものは何らかの実在や事象を表すものでありますから、その年の重大なニュースは、その年を象徴する言葉にもなるかと思います。

と考えますと、その年の流行語大賞と十大ニュースは、まったく別のものではなく、相互に密接な関係にあると言えます。

 

流行語大賞』と『十大ニュース』の関連性を、たとえば明治時代辺りから調査研究していくと、新たな視点による日本の近現代史を展開することもできるのではないかとも思います。

 

たとえば、かろうじて都民や国民を一番に優先するという意味の《◯◯ファースト》は、希望の党の失速とともに過去の流行語となり、日本社会を象徴する《忖度》が大賞に選ばれたことは、その事例としてとらえることができるのではないかと思います。

 

え?

(じゃあ、オマエが研究してみろ……)

って、言われると、困ってしまいます……

狭い思考から抜け出す方法

「私は、生きていても仕方ない存在なのではないか……」

「私に、生きる価値はあるのだろうか……」

と、たくさんの人が悩みを抱えている一方で、

「社会に貢献できる人間になりたい……」

「誰かの役に立つ人間になりたい……」

という方がいらっしいます。

この差は、どっからくるのだろうかと、ときどき考えてしまいます。

 

組織に入って、自分は役に立つ人材だ、世の中に貢献している人間だと実感する人と、組織自体に疑問を感じ、自分の存在意義を問うようになる方もいらっしゃいます。

やっぱり、この差はどこにあるのだろうかと、ときどき考えてしまいます。

 

教育機関などでは、

「生徒や学生の才能や個性を引き出し社会に貢献する人材を育成する」

ということを標榜しているところがあります。

確かに、そうしたことを実践しておられる学校もあるかと思いますが、世の中との違和感を何となく感じているのは、アタクシのヘソが曲がっているからでしょうか……

 

でも、

「一緒や一緒や」

と共感することによって安心する自分がいる一方で、多くの方が、人と同じではない自分を模索しているのも事実のように思います。

 

「そのままの自分で大丈夫」

てな言葉に人々が群がるのは、そんな世の中の、あるいは人間の中にあるズレた隙間があちこちにあるという証拠かとも思います。

 

そんなこんなを全部ひっくるめて考えると、二者択一的な世間の枠に囚われて袋小路から抜け出せないような狭い思考から脱却することができるようにも思います。

 

この話を例によって例の友人にいたしましたところ、

「その結果が、今のキミと言うことやな」

「そら、どういう意味や!」

サラリーマン社会に適合するのが大変な人って、誰やねん!

自由民主党の某衆議院議員が、力士について、

「体がでかいから普通のことができない」

と発言して物議を醸したことに関して、

「力士の中には、サラリーマン社会に適合するのはなかなか大変な人もいる」

として、相撲の文化を絶やしてはいけないという主旨の発言であったという釈明をされたそうです。

 

この先生の発した言葉の、〈力士〉を他の言葉、たとえば〈政治家〉に置き替えることもできるかと思います。

『政治家の中には、サラリーマン社会に適合するのはなかなか大変な人もいる』

その他、〈芸術家〉や〈芸人〉なんて言葉に置き替えても通じます。

 

爆笑問題の太田さんは、これ以外の仕事、たとえばコンビニエンスストアーの店員は勤まらない、なんてことをおっしゃって、自分がサラリーマン社会に適合できないことを述べておられました。

御自分のことをよく理解している人は、尊敬に値します。

 

でも、この発言をされた某先生は、自分がサラリーマン社会に適合できるか否かについて、お考えになったことがあるのでしょうか……

 

また、

〈選挙に落ちればただの人〉

とは政治家を揶揄する言葉ですが、サラリーマン社会に適合できるかどうかという基準でしかモノを考えられないのだとしたら、当選するか否かという以前に、その人は政治家という仕事にも適合できない人間であり、ただの人にもなれないのではないかとも思います。

 

かく言うアタクシも、サラリーマン社会に適合するのが大変な人間の一人ではありますが、そんな政治家に心配されるほど落ちぶれてはいないつもりであります!

 

ちょっと言うたった……