ハーフから見た日本のカタチ

NHKのドキュメンタリー番組『ひとモノガタリ「曖昧な境界を生きて〜ハーフから見た日本のカタチ」』を見て、

〈他者を無条件で認めることの難しさ〉

を感じました。

 

見た目は日本人と違う、例えば白人系の彫りの深い容貌ならうらやましがられ、褐色の肌をしていれば高い身体能力を期待されるけれど、それが却って本人たちを苦しめる要因になっている……

 

外見の違いが招く羨望や期待は、決して無条件でその人の存在を認めているのではありません。

当事者でもある池間昌人アナウンサーは、

「線を引かれる」

と表現していました。

 

羨望や期待は、称賛ととらえることもできますが、それを裏切ればその存在が認められなくなるのではないか、という受けとる側の虞は一般にもあります。

 

おそらく、番組が伝えようとする主旨とは異なるかと思いますが、マザー・テレサのように、すべての人の存在を無条件で認めてそれを相手に伝えることがいかに難しいことなのか、ということを思いました。

 

こんなことを例によって例の友人に語りましたら、

「キミの場合、無条件で自己の存在を認めていないからねぇ……」

すずり発見!

弥生時代古墳時代の遺跡から発掘された石が、調査の結果、『すずり』と判断される事例が、九州北部を中心に相次ぎ、紀元前100年ごろから文字が使われていた可能性があったと専門家が指摘した、とNHKNEWSWEBが報じています。

また、文字は、外交、交易、行政などで使われていたと考えられているそうで、弥生時代は高度な文化を有した時代ではないかという推測もされているようです。

 

日本の文学史では、文字を用いた作品として、奈良時代に日本最古の歌集『万葉集』があり、平安時代に最古の物語『竹取物語』が成立したと説明されていますが、もし、弥生時代から文字が使われていたとしたら、自分の心情を表現する文章、あるいは文、フィクションもあっていいような気もします。

 

万葉集』にしろ『竹取物語』にしろ、一応、〝現存する〟という但し書きがついていますから、弥生時代にそうした作品もあったかもしれません。

もしかしたら、漢字ではない、独自の文字によってそれらは書かれていたのかもしれません。

 

なんてことを空想してしまいました……

前略、《道》の字から……

《道》

のつく熟語は、仏教から多数出ているようです。

 

《極道》

は、元は、

〈仏の道を極める〉

という意味でしたが、いつのまにか、

《横道者》

を指すようになったようです。

 

ほんとうは、御仏の教えを極めんとしていたのに、それにこだわるあまり、本来の道から分かれた、あるいは外れた、

《横道》

仏道

と思い込んでしまう……

 

《大道》《正道》《王道》

なんて言葉より、

《邪道》《悪道》《外道》《非道》《詭道》《無道》

てな言葉がたくさんあるということは、それだけ御仏の教えに叶う生き方が難しいということを示唆しているようにも思います。

 

そんなたいした教えでなくても、

《人道》

に外れぬ日々を送れればいいかと思いますが、昨今の事件を見ておりますと、

《言語道断》

人の道に外れることが横行する世の中を、アタクシどもは生きていかなければならないのだとも思います……

 

この状況を、

二河白道

と表現するのかと思い、最近、これを筆名にしておりますが、色と欲の二河に滑り落ちるは、転げ落ちるはで、その間に細く長く続く白い道を歩むのは、アタクシにはかなり難しいようでございます……

長崎市長の平和宣言から……

74回目の平和記念式典が、長崎市平和記念公園で営まれました。

平和宣言で田上長崎市長は、被爆した山口カズ子さんの詩を引用されました。

 

《幾千の人の手足がふきとび 腸が流れ出て 人の体にうじ虫がわいた》

 

原爆が落とされた広島の惨状を描いた、原民喜さんの『夏の花』の描写も、残酷なほど生々しい表現だと思いましたが、プロの作家でない市井の女性のこの詩にも、酷い現実が表現されている、と思いました。

 

文章より写真や映像のほうが人々に衝撃を与えうる、と考えがちですが、言葉だからこそ、それぞれの人に強烈な印象を刻むことができる、と言えるかもしれません。

 

でも、さらにその詩に書かれた、

《人は忘れやすく弱いものだからあやまちを繰り返す》

から、伝えることの難しさも表されているように思います。

 

言葉で伝えるということがどういうことか、改めて知らされたように思いました。

 

広島と長崎から発せられる言葉……

 

ただ頭を垂れるばかりです。

片手にスマフォ、方手に手持ち扇風機、そして心に……

最近、小さな扇風機で顔に風を送りながら歩いている人をよく見かけます。

この小さな扇風機は、ハンディファンなんて名前ではなく、手持ち扇風機、あるいは携帯扇風機と呼ばれているところから考えますと、日本の電機メーカーが売り出したようです。(横文字でも日本人の発想かもしれへんやないかい!)

 

若い女性が浴衣を着て片手にスマートフォンを持ち、もう片方の手にこの扇風機を持っているのを見かけて、日本も終わりかと歎いておりましたら、彼女たちは中国を話しておりました……

 

建設現場など、炎天下で働く人の作業着に小型のファンがついて風が送られ、ヘルメットに熱中症を予防するセンサーが取り付けられるという発想も、日本発かと思いますが、こちらはグッドアイデアかと思います。

 

その他、男性が日傘を差していたり、汗取りのシートを使っていたりするところを見かけます。

 

ビジネスアイデアとしては、ヒット商品が生まれている感じがありますが、

「日本はこれでいいのか!」

てなことを言いましたら、例の友人が、

「キミ、最近、日傘を差して、汗取りシートを使って、先日、手持ち扇風機を買ってたよね」

お寺の掲示板の言葉

NHKNEWSWEBのNewsUpに、話題になっているお寺の掲示板を取り上げています。

 

アタクシもときどきお寺の掲示板を見ては、

「なるほど」

「おもしろい」

てな感想を持って、拙ブログのネタにしようと思いながら、つい忘れてしまって、何の功徳もご利益もない、罰当たりな毎日を繰り返しておりましただけに、

 

《ボーッと生きてもいいんだよ》

 

には、やられた、と思ってしまいました……

 

昨年からネット上で、こういう『お寺の掲示板大賞』が開催されていて、昨年の大賞受賞作品は、

 

《おまえも死ぬぞ》

 

だったそうです。

 

相変わらず、世間では、いろんな人の言葉を紹介した書籍が人気を博しているようですが、来年当たり、お寺の掲示板を集めた書籍が出てもおかしくないように思います。

 

まあ、御仏が、

《おまえも死ぬぞ》

などと直接おっしゃたわけではありませんが、言うなれば、

《ボーッと生きてんじゃねえよ!》

てな気合いを入れろ系の言葉から、

《ボーッと生きてもいいんだよ》

なんて癒し系の言葉まで、いろいろ揃うのではないかと思います。

 

それにしても、

《ボーッと生きてもいいんだよ》

《おまえも死ぬぞ》

と並んでお寺の掲示板に書いてあったら……

10月22日(火)は祝日です!

令和元年の今年だけの祝日があることに、気がついていなかった方は、アタクシだけではないかと思います。

 

10月22日(火)は、

『即位礼正殿の日の行われる日』

で、2018年12月14日に交付された、

天皇の即位の日及び即位礼正殿の儀が行われる日を休日とする法律』

によって、祝日となっています。

 

即位に関わる祝日として、ゴールデンウィークばかりが注目されていたことや、この法律の公布が昨年12月14日だったために手帳やカレンダーに祝日と記すことができなかったことが忘れられた要因になっているようです。

 

ところで、どうしてアタクシがこれを知ったかと申しますと、先日、玄関師の厄払いの会の打ち上げで、圓九師を除くメンバー、玄関師、かかし師、猿之助師が揃っておりましたので、次回の三題噺の会の日程を選定する際に、かかし師より知らされたという次第で、ということで、10月22日(火)午後2時より伝楽亭にて『三題噺の会』を開催いたしますので……

 

え?

(令和元年に一日しかない貴重な祝日に、何をしてくれるんや!)

 

(広島に原爆が落とされた日にそんなしょうもないことを告知するとは、何事か!)

 

申し訳ありません……