〈コミュニケーション〉と、カタカナで表記されているということは、本来、この言葉が日本にはなかったことを意味しています。
コミュニケーションという言葉がもてはやされる以前は、〈以心伝心〉が日本の伝統でした。
ですから、かつて流行したコマーシャルの台詞ではありませんが、
「男は黙ってサッポロビール」
で、よかったわけです。
それが、コミュニケーション能力が重要視されるようになって、みんなでビールを飲んでいるときでも、黙っていては許されないような風潮が漂う世の中になってしまいました。
お酒の席を盛り上げなければ、コミュニケーション能力、いえ、〈ノミ二ケーション〉能力の欠如した人間、という烙印すら押されかねない時代です。
そうしたことから、酒宴を盛り上げることが得意だから自分にはコミュニケーション能力がある、と勘違いする人間が現れることになります。
「あなたの特技は何ですか?」
「コミュニケーション能力のあるところです」
「その根拠は?」
「クラブの打ち上げなどで、みんなを盛り上げることができます」
「じゃあ、得意のコミュニケーション能力で、ここにいる我々を盛り上げてくれますか」
「え?……いや、それは、ちょっと……」
「我々のようなおっさんとは、コミュニケーションなどとれない、ということですか」
「いえ、決してそのようなことは……」
「ということは、君にはコミュニケーション能力はないということですか」
「申し訳ありません。コミュニケーション能力を、私は誤解していたようです」
「では、誤解のないコミュニケーション能力とは、どのようなものですか?」
「この場にいらっしゃるおっさん方が相手ででも、説得力のある話ができる能力です」
今日は、就職活動の解禁日です。