外国語に比べて、擬態語が多いというのが、日本語の特徴です。
それが、日本語はわかりにくいとか論理的でないと言われる要因の一つになっているようです。
中でも、『ぼちぼち』はその最たる物ではないかと思います。
「ぼちぼちやろうか……」
「それでは…… あれ? 仕事に取りかからないんですか……」
「だから、ぼちぼちやろうかと言ったでしょ。そんなに慌てずゆっくりやろう」
「ぼちぼちやろうか…… おい、何をそんなにのんびりしてる」
「いや、だって、ぼちぼちやるんでしょ」
「だから、そろそろ仕事に取りかかるぞということだ」
「やあ、お久しぶり」
「ああ、ほんに久しぶり」
「景気はどうですか?」
「ぼちぼちでんな」
「そうでっか、ほなさいなら……」
大阪弁のこの会話を傍で聞いていた外国人が、
「今のぼちぼちはどういう意味ですか?」
問われた会話の当の本人も、
「さあ、どういう意味と言われても、改めて考えたことはおまへんなあ……まあ、ぼちぼち考えまひょか」
そう言われて、数日後、
「先日、ぼちぼち考えるとおっしゃってた『ぼちぼち』って、どんな意味ですか」
「そやから、ぼちぼち考えると言いましたやろ」
「その、ぼちぼち考えるって、いつ頃までですか」
「そやから、ぼちぼちや」
追究してはいけない、という婉曲表現にもなっています。