「稀勢の里は大丈夫ですかね」
「阪神は調子よさそうですね」
「高浜4号機、営業運転開始ですね」
「テロ準備罪、衆議院を通るでしょうね」
オッサンが集まる職場に参りますと、そんな話ばかりで、誰も46年近く逃げていた過激派の指名手配者と思われる男が捕らえられたというニュースを話題にしてくださいません。
指名手配犯らしい男の身柄が確保されたなんてニュースなんて、世間の人の興味を、アタシが思うほどには引いていないようです。
改めて考えてみますと、ニュースの価値てなもんは、いったいにどこにあるのでしょうか……
世の中が必要としているニュースかどうかなんてアンケートをいちいちとってから報道するわけにはまいりませんから、なんとも言えませんけれど、もしかしたら、通常、お天気以上に必要とされるニュースなんて、存在しえないのかもしれません。
先日、
「新聞を読めとよく言われるけれど、ほんとうに新聞は読まなければならないものですか……」
と、ある大学生に問いかけられました。
「新聞を読む意義は、単なる報道にあるのではなく、報道されるなんやかやについて、それぞれの新聞社の考えがでているところにあるのではないかと思います」
と答えましたところ、
「誰かの考えを自分の知識に加えるなら、新書の評論文を読んでもいいのではありませんか」
と言われました。
「いや、新聞に記載されたニュースに関わる人間、たとえば、逮捕された指名手配犯の背景や心情を想像するのも、面白いよ」
「別に指名手配犯でなくても、このオッサン、何を考えているんだろう、と考えるのも同じではないかと思います」
どうやらその大学生は、目をキラキラさせながら、指名手配犯とアタクシに共通する何かがあるように思っているようでした。
さすがに、
「キミ、勘違いをして……」
え? なんですか?
(勘違いやない!)