結わえていた髪をといた理由

 ここ一年ほど、髪を切っていません。

 伸ばした髪を束ねて、総髪に結いたいと思っているからですが、まだ、それには少し足りない今の状態でも、ちょっとやってみますと、

 「アーティストみたい」

 「ライオンみたい」

 といったカッコイイ表現をしてくれる方もいらっしゃれば、

 「落ち武者みたい」

 とおっしゃる方もいらっしゃいました。

 落ち武者なんて比喩は、まだ伸びきっていない髪をうまくとらえて、面白いと思いましたが、中に、

 「どうしてそんな髪型なんですか」

 と聞く人があって、それに応える前に、横から、

 「髪の少ない人への当てつけや!」

 と答えた御仁がいらっしゃいました。

 ワタクシ、その場で結わえていた髪を戻しました。

 

 これは、たとえば、ポーズをとるボディビルダーに対して、

 「脂肪だらけで腹の出た人間への当てつけか!」

 と怒る人間と同じかと思います。

 目の前の事実からどのような気持ちになるか、ということは、人によって違います。

 つまり、事実をどのように解釈するかは、各人の状況によって違うということです。

 問題は、自分の解釈を前提に、そやつが他者を否定するところにあります。

 さらに、

 「それは、そうでない人を馬鹿にしているのか」

 という非難の色を帯びて、言われた方に、自分が悪かったのではないか、と思わせてしまうところに、問題は波及します。

 一つの言動について、

 「これこれの人がいらっしゃるのに、あなたの言動は、その人たちを傷つける」

 式の非難に、

 「自分は周囲への配慮が足りない人間だ」

 と、自責の念を禁じ得ない方も少なくないと思います。

 発言する人の立場や状況から考えれば、そうした言動は批判されて当然である、という事例まで擁護するつもりはありませんが、誰かを傷つける、という言い方で非難する人間の急所が、むしろ、ここにあるように思います。

 つまり、自分の劣等感を、他者を攻撃することに転移しているのではないかということです。

 一つの事実である言動に、不快感を示して非難する人間もいれば、そんなことを感じない方もおられます。

 だとするなら、非難されても我々が自責の念を持たなければならない道理はないと思います。

 穿った言い方をするなら、そのような非難を投げかける輩には、劣等感から出た悪意が潜んでいるのではないかとさえ思います。

 実際、

「髪の少ない人へのあてつけや!」

 と宣わった御仁の頭髪は、頭頂からしだいに失われているようでした……

伝楽亭米珠生誕百年祭落語会

 本日、大阪千林の伝楽亭にて、『伝楽亭米珠生誕百年祭落語会』(城北迷人会プロデュース)が開催されました。

 伝楽亭米珠さんは、御年88歳から伝楽亭で落語を始められた方です。残念ながら95歳でお亡くなりになりましたが、御存命なら、今年100歳になられます。

 その米珠さんの生誕100年を祝う落語会が開催されたというところから、いかに多くの人に親しまれていたか、いえ、敬われていたか、ということがわかります。

 伝楽亭に関わる演者の中で、米珠さんより年長の者はいません。でも、米珠さんは、常に腰が低く、誰にも丁寧に接してくださっていました。本日、高座を務めた演者に限らず、打ち上げにおいても、米珠さんに教えられたことを、それぞれが述べていました。

 そのような米珠さんに比して、相手の年齢、学年によって態度を変える人がいらっしゃいます。もちろん、学生時代からの先輩後輩の間柄なら、それは当然かもしれませんが、社会人として知り合って、こちらの学年や年齢を確かめて自分が年長だとわかると、先輩風を吹かせる方を、ときどき見かけます。

 このような人たちは、もしかしたら、自分が他の人より偉くありたいと思っている人ではないかと、私、密かに思っておりまして、この方たちが世の中でもっとも偉いと感じる瞬間は、長寿世界一でギネスブックに記載されるときではないかと思います。

 ただ、仮に、そのような方が、長寿世界一になったとしても、生誕祭が開かれることはないように思います。

 どのように生きて、死後、敬われるか否かは、死者にはあずかり知らぬことかもしれません。

 でも、米珠さんのように生きたいという思いを、少なくとも今日の演者、さらには城北迷人会のメンバーは、持っているかと思います。

 思っていても、それができるかどうか、私には自信がありませんが……

 そんなことを思った一日でした。

『紺屋高尾』~晦日に月が出る噺~

 「女郎の誠と卵の四角、あれば晦日に月が出る」

 てな言葉を知っているのにもかかわらず、

 「遊女は男をだまして金を巻き上げるもの。こいはこいでも、金持ってこいや」

 てなことが、頭ではわかっていても、

 「こいつはわしだけに惚れている」

 なんて信じてしまうのは、そやつが、

 「自分は特別な人間なのであ~る!」

 などと、どの辺りが特別なのか、よぉわかっていないばかりか、根拠もなくそないに思い込んでないと生きていられない輩だからではないかと思います。(知らんけど😵)

 そんなことを『三枚起請』が教えてくれている一方で、三年働いて稼いだお金で廓に上がった紺屋職人と高尾太夫とのラブストーリー『紺屋高尾』は、庶民の願望の先に生まれた噺のようにも言われていますが、ひたむきにコツコツと働くことが幸せをつかむ近道である、という教えのためにこしらえれた物語なのかもしれません。

 そうは申しましても、すべての遊女が遊郭に閉じ込められたまま、不幸な死を迎えるばかりではなかったようです。

 中には、年季が明けて客と所帯を持った遊女も実際に存在したようでございます。

 つまり、遊女とは、一時的に就いていた職業であって、それは、その女性の人生の一端でしかない、と考えることもできるかと思います。

 かつて一世を風靡した、家田壮子さんのルポルタージュを原作とした映画『極道の妻たち』(監督・五社英雄さん)シリーズの中に、

 「極道やから惚れたんやない。惚れた男が極道やっただけや」

 という趣旨の台詞がありました。

 高尾太夫も、太夫と言う職業にあったからこそ、お大名やらお金持ちやらにではなく、紺屋職人に惚れたのでしょう。

 ああ、一生に一度でええから、そないにワタシも惚れらてみたい……

 え? 晦日に月が出る?

                                  デンデン

『三枚起請』

 教会であっても神社であっても、あるいは寺院であったとしても、結婚式を挙げる理由は一つです。

 二人が、少なくとも一方が死ぬまで愛し合うことを神仏に誓うためです。

 ということは、神仏に誓わなければ、死が分かつまで二人は愛し合うことができない、ということではないかと、ワタクシ、ず~っと密かに思っております。

 状況や気持ちが変わったら一度言うたことでも覆すのが人間である、ということを前提として人々が社会生活を営んでいる、ということを示しているのが、誓う、という行為だと考えられます。(知らんけど😵)

 神仏に誓い、さらに人々に告知することによって、相互に心変わりを許さないことを、誓約書であれ契約書であれ文書にし、なおかつ、誓いが破られた場合の約束事をそれに明記するということは、人間は明らかに裏切る生き物である、と言うことを逆に浮き彫りにしているように思われます。

 にもかかわらず、いえ、だからこそ、誓いの文書を信じて人間は生きているのでしょう。

 ただ、それが反故にされる可能性があると承知していても、誓いを破られると怒りが増幅するのもまた人間かと思います。

 そうした文書の一つが、昔の起請文(きしょうもん)です。

 遊女が、年が明けたら、つまり勤めの期間を終えたら、あなたと所帯を持ちます、ということを、客に誓うた文書です。

 所帯を持つことがでけるのは、女性一人につき、男一人です。当然、その遊女から起請文を受け取ることができる男は一人だけのはず……

 その起請文を、一人の遊女から、それぞれにもらっていることを知った友達同士、三人のやもめが、遊女を懲らしめてやろう、という噺が、『三枚起請』です。

 男という生き物は、いたって単純な生物でございます。

 「こんな商売してるけど、あなただけよ……」

 なんて言われますと、もう頭に血が上ってしまいます。

 実際に、ガールズバーに通って、

 「おれ、あの店に行ったら、もてるんや」

 てなことをのたまわる御仁がいらっしゃいました。

 周囲の女性にはなんとも思われてない方でしたから、

 「そら、あんた、向こうは商売やさかい、そない言うてますんや」

 と、皆が申しましても、聞く耳をお持ちではありませんでした。

 言うときますけど、それ、ワタクシやおまへんで……

『星野屋』効果

 石川さゆりさんの『天城越え』(作詞・吉岡治さん 作曲・弦哲也さん)には、

 「あなたを殺していいですか」

 中西保志さんの『最後の雨』(作詞・都志見隆さん 作曲・富田素弘さん)には、

 「君を壊したい」

 という、物騒なフレーズがあります。

 せっかくの名曲に対して、ワタクシ自身もよく歌っているのもかかわらず、誠に申し訳ありません。

 「あなたを殺して、君を壊したそのあと、あんたはどなしまんねん?」

 てなツッコミを入れたくなります。

 令和の時代にこのような歌は流行りません。

 むしろ、タブーになりつつあるように思いますのは、そんな事件が実際に発生しているからかもしれません。

 江戸時代、近松門左衛門先生の『曽根崎心中』『冥途の飛脚』『心中天の網島』は、

実際にあった心中事件を題材に書かれて、これがまた男女の心中を煽った、などと言われています。

 妨げられる愛を貫くために死を選ぶストーリーに、なぜ、人は甘美な幻想を抱いてしまうのでしょうか。

 でも、落語だけです。

 そんな愛など存在しないことを教えてくれるのは。

 心中を題材にした落語はいくつかございますが、本気で心中しようなんて男女は、いずれにも出てきません。

 『星野屋』では、旦那が持ち掛けた心中を、そんな気のない愛人はうまくかわしますが、実はそれが愛人の性根を試す旦那の計略だった……てな、だまし合いのどんでん返しがあって、もし、本気で心中を考えているとか、誰かを殺したいとか壊したいとか思い詰めている御仁が見たら、憑き物が落ちて正気にもどるのではないかと思います。(知らんけど😵)

 男女の誠実な愛情を否定するつもりはさらさらありませんが、ストーカーの理不尽な執着による事件を少しでもなくす可能性を、『星野屋』は秘めているように思います。

 まぁ、落語を観て笑うているうちに、思い込んでいたなんやかやがバカバカしく思えてくる、てなことは、ちょいちょいありますよね。

『高津の富』~一獲千金の秘策~

 皆からちょっとずつお金を集めてまとまった額になったら抽選で当たったモンにその金を渡すというのが、富くじ、現代で言うところの宝くじでございます。

 江戸時代、寺院の造営、再建などを名目に寄付を募るところから始まっているそうですが、収益の一部が公共事業に使われるところは、現代も変わらないようです。

 でも、社会のために寄付をすると言いながら、その余剰金で大金を手にするチャンスがあるとなればつい手を出してしまうのが人情でございます。

 『これ小判たった一晩いてくれろ』

 てな川柳に詠まれるような、お金の心配をせずに日々を送れることは、昔も今も変わらぬ庶民の夢でございます。

 ワタクシもちょいちょい買うておりますが、

 「こんなん、当たるわけない」

 と思いながらも、ほのかな期待を抱いて当選しているか否かを確かめております。

 そんな夢を題材にしておりますのが、『興津の富(宿屋の富)』でございます。

 当たっているはずはないと思いながらも確かめては、諦め、諦めたつもりでまた確かめて、それが当たっている事実に気が付いて……

 という、人間の心理を描いたくだりが『高津の富』の見せ場、見どころではありますが、前半の、宿屋の亭主に自分が大金持ちであることを吹聴する男の噺も面白いところかと思います。

 ただ、この男のほら話を、宿屋の亭主は不審に思わなかったのか、なんて、どっちゃでもええようなことを、『高津の富』を見るたびに疑問に思い、でも、もしそうなら、この宿屋、もっと繁盛していたかもしれないと、つい余計なことまで考えてしまいます。

 まあ、結果的に、その宿屋の亭主も富を手にしているところから考えるなら、大風呂敷を広げる輩の話に乗っておくのも、一攫千金の手ぇになるようにも思います。(知らんけど😵)

 ここまで書いて、ふと、気が付きました。

 大風呂敷を広げている輩って…… オレや!

『おごろもち盗人(もぐら泥)』『芋俵』~盗人の企画能力~

 落語には、盗っ人の噺がぎょうさんございます。

 なんでそないにぎょうさんあるのかと申しますと、寄席で盗人をなんぼぼろくそに言うても、それを聞いた盗人が苦情を申し立てることはないからだそうです。

 たいがいは、金目のモンがない、戸締りもせえへえんような貧乏長屋に入って何も取らんうちに家人が帰ってきておもろいことになるのが一つのパターンではありますが、やっぱり、盗人を稼業とするからには、それなりの商家からまとまったお宝を頂戴したい、となりますと、厳重な戸締りをいかにかいくぐって侵入するか、てなところに知恵を絞らなければなりません。

 池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』なら、内側から鍵を開ける引き込み役を何年も前から奉公人として入れるとか、役人やその家の関係者を装って鍵を開けさせるとか、侵入手口がいろいろございますが、落語でそないに手のこんだことを考える盗人はございません。

 『おごろもち盗人』、江戸で言うところの『もぐら泥』は、土を掘って手を入れて、桟を外して侵入を図る盗人でございます。

 こんな手口の盗人がほんまにおったかどうか、寡聞にしてワタクシは存じませんが、もしかしたら、オチを先に考えたあげくの噺のようにも思います。

 『芋俵』も、新たな侵入方法を考案して実行に移す噺で、『おごろもち盗人』にしろ『芋俵』にしろ、そないなことを考え付く頭を持っているんやったら、もっと世のため人のためになることを考えたらどうやねん、と言いたくなります。

 それは、もちろん、『鬼平犯科帳』に登場する盗人にも言えるかと思いますが、そこに頭を使わないところが、人間の人間たるところでもあるかと思います。(知らんけど😵)

 そう考えてまいりますと、落語を考える人間も、それなりに頭を使うているわけでございますから、そんな道楽にその才能と時間を費やさずに、もっと世の中に貢献することを考えたらどうやねん、と言いたくなりますが、不思議とそんなお方ほど、善なる社会生活を営むことが難しいようにも思います。

 と申しましても、健全な社会生活が営めない人間が、すべてそのような頭脳の持ち主ではない、ということは、ワタクシ、身をもって承知しております😵