落語には、盗っ人の噺がぎょうさんございます。
なんでそないにぎょうさんあるのかと申しますと、寄席で盗人をなんぼぼろくそに言うても、それを聞いた盗人が苦情を申し立てることはないからだそうです。
たいがいは、金目のモンがない、戸締りもせえへえんような貧乏長屋に入って何も取らんうちに家人が帰ってきておもろいことになるのが一つのパターンではありますが、やっぱり、盗人を稼業とするからには、それなりの商家からまとまったお宝を頂戴したい、となりますと、厳重な戸締りをいかにかいくぐって侵入するか、てなところに知恵を絞らなければなりません。
池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』なら、内側から鍵を開ける引き込み役を何年も前から奉公人として入れるとか、役人やその家の関係者を装って鍵を開けさせるとか、侵入手口がいろいろございますが、落語でそないに手のこんだことを考える盗人はございません。
『おごろもち盗人』、江戸で言うところの『もぐら泥』は、土を掘って手を入れて、桟を外して侵入を図る盗人でございます。
こんな手口の盗人がほんまにおったかどうか、寡聞にしてワタクシは存じませんが、もしかしたら、オチを先に考えたあげくの噺のようにも思います。
『芋俵』も、新たな侵入方法を考案して実行に移す噺で、『おごろもち盗人』にしろ『芋俵』にしろ、そないなことを考え付く頭を持っているんやったら、もっと世のため人のためになることを考えたらどうやねん、と言いたくなります。
それは、もちろん、『鬼平犯科帳』に登場する盗人にも言えるかと思いますが、そこに頭を使わないところが、人間の人間たるところでもあるかと思います。(知らんけど😵)
そう考えてまいりますと、落語を考える人間も、それなりに頭を使うているわけでございますから、そんな道楽にその才能と時間を費やさずに、もっと世の中に貢献することを考えたらどうやねん、と言いたくなりますが、不思議とそんなお方ほど、善なる社会生活を営むことが難しいようにも思います。
と申しましても、健全な社会生活が営めない人間が、すべてそのような頭脳の持ち主ではない、ということは、ワタクシ、身をもって承知しております😵