世相を斬る!〜〈そだねー〉〜

『2018 ユーキャン新語 流行語大賞』が、平昌オリンピックで銅メダルを獲得した、カーリング女子日本代表チームの、

そだねー

に決まりました。

 

「やっぱり、大賞はこれしかないよね」

そだねー

 

「これなんか、ほっとするニュースでいいけど、最近のニュースにはうんざりするよね」

そだねー

 

「たとえば、以前は隠蔽されていたような、警官や学校の先生の不祥事なんかが、最近はニュースになるようになったね」

そだねー

 

「昔は、企業のパワーハラスメントセクシャルハラスメントなんてまったく問題にされなかったけれど、今じゃそれで人生を棒に振ることになるんだよね」

そだねー

 

「どこかの偉いさんたちがずらっと並んで、ずっと頭を下げて謝罪している映像なんて、前は見なかったよね」

そだねー

 

「今年もいろんなことがあったよね」

そだねー

 

「来年はどんな年になるんだろうね」

そだねー

 

「来年の流行語大賞は……」

そだねー

 

2年連続受賞するなんてことになりますと、流行語でなくなります。

そだねー

 

いや、そうじゃなくて……

そだねー

 

誰か止めてくれー!

そだねー

伝楽亭『三人会』レポート

昨日、伝楽亭で開催されました、文月嬢、美猫嬢、みたらし嬢の『三人会』に参りました。

 

友情出演で高座を務められた田舎家かかし師が、

「女性だけの落語会が増えて、男性ばかりの落語会が珍しくなりました」

とおっしゃっていましたが、三人会の皆さんに限らず、なでしこ(女性の素人落語家)の方々は、そろってのびのびと落語をされていらっしゃいます。

もちろん、拝見するたびに、腕を上げておられますし、それに刺激されるように、男性の素人落語家の腕も、今まで以上に上がっているように思います。

 

近頃、かかし師は、

「東京の講談師のように、近いうちに上方の落語家も女性が過半数を占めるでしょう」

とおっしゃています。

 

セクハラ親父の烙印を押されているオッサンがいつまでものさばっているような企業は、昨今減ってきているようには思いますが、それでも男が幅を利かせている企業は、早晩、衰退、倒産の憂き目を見るのではないかと思います。

 

え?

(女性の会に行っては打ち上げで口説いてるんやないんか?)

 

とんでもないことでございます……

 

〈打ち上げや ないとは言えぬ 下心〉

なぜ、奴らは聞く耳を持たないのか?

聞く耳を持たない〉

という言葉を、最近、どなたかが使われたように思います。

決定事項だから、今さらどうにもならないし……

なんて事情が聞かされるほうにあるのかもしれません。

 

〈口が一つ、耳が二つ付いているのは、おしゃべりを慎み、人の話をよく聞くためである〉

とよく言われますが、人の話を聞かず、聞いてもすぐに否定して己の言いたいことを口にする輩の、なんと多いことか……

 

耳は、聞くという、ただそれだけの役目を果たすためについていて、口は、話すだけでなく、食べたり飲んだり、息を吸ったりという、いわば生きるために必要だからついているはずです。

にも関わらず、生きるために不必要なおしゃべりのために、かなり使われているように思います。

 

昨日、ある企業の会議中に常にごそごそと私語をする女性がいるという話を聞きました。その女性は、営業社員として非常に優秀なんだそうですが、そのおしゃべりをいくら注意しても直ら(直さ)ないそうです。

 

どれだけ優秀有能でも、しゃべっていないと人間関係が保てないと思い込んでるのか、それともしゃべることによって他者からの承認を求めていなければならない不安な人なんだろう、という結論に、その話を聞かせてくれた人と達しました。

 

そんな方には、問答無用で会議室からご退場願うしかないようにも思いますが、おそらく、そんな指示にも聞く耳を持たないのではないかと思います。

 

世の中、〈聞く耳を持たない〉人が多くて、ホンマに難儀しますなぁ……

 

え?

(オマエもそうや!)

というツッコミを聞く耳は、アタクシ持っております……

絶望に巡り会う現代社会

本日、書店で『大宰治絶望語録』(豊岡昭彦氏編著 WAVE出版)を見つけてしまいました。

 

昨年か一昨年でしたか、『絶望名人カフカの人生論』(頭木弘樹氏訳著 新潮社)が話題になっていたかと思います。

 

明るい希望に満ちた人生何ぞはただの幻影に過ぎないことに気がついてしまうと、目先に現実に振り回されてしまって、自分を見失う方もいらっしゃるかと思いますが、そんなときに、これまで目を向けてはならないものの代表のような〈絶望〉を再認識することによって、現代人は自分の人生を見つめ直すことができるのではないか……

 

〈絶望〉の根底には、人生の真実を知らしめる力があるように思います。

 

この本を見つける前に、職場で親父ギャグ(ダジャレ)をかましましたところ、隣のs席の女性がすかさずスマートフォンを取り出して、

「親父ギャグ」

と言うと、たちまちいくつかの親父ギャグを発しました。

にっこりと笑った女性にアタクシは思わず、

「そんなことをされたら、アタクシの存在意義がなくなってしまいます」

 

絶望を感じた瞬間でありました……

〈祝ゴルゴ50周年〉〜〝かっこいい〟を考える〜

今月24日に発売された『ビッグコミック』(小学館)12月10日号のサブタイトルは、〈祝ゴルゴ50周年〉です。

 

これだけ長く続いているのは、ゴルゴ13のかっこよさにあるのは当然ですが、そのゴルゴ13のかっこよさを追究していくと、〝かっこいい〟とはどういうことか、見えてくるのではないかと思います。

 

もちろん、卓抜した技量によってどんな依頼も完遂する点を第一に挙げることに異論の余地はありません。

ただ、それだけでゴルゴ13の〝かっこよさ〟を語り尽くすことはできません。

 

ゴルゴ13は、どんな状況に陥っても、自分のルールを貫き通す。

 

ここがゴルゴ13の〝かっこよさ〟の基盤になっているように思います。

 

そのルールによって、ゴルゴ13は奇を衒うことなく、自己を誇示することなく、また、他者を貶めることもしません。

また、協力者には、自分の価値観によって、相応の報酬を支払います。

けちくさいことをしない、というところです。

 

《奇を衒わない》

《自己を誇示しない》

《他者を貶めない》

 

逆に言うと、それらに頼らないと、かっこよく見てもらえない、と思っている人間、異帰ると、自分の存在に自信がない、という人間が、どれほどたくさんいるか、ということでもあるように思います。

 

そういう意味で、

「アナタの尊敬する人は誰ですか?」

という問いかけには、

「ゴルゴ13」

と答えたいと思っています。

著作権が厳格に守られる社会にあって……

本日のYOMIURI ONLINEに、出版社の頸草書房が、二月に刊行した書籍に、重大な無断転載があったとして、同書の絶版とし回収すると発表したというニュースがありました。

 

その隣に、漫画家が起こした裁判で、無断投稿サイトの発信名開示を命じる仮処分が下されたとの報道もありました。

 

芥川賞の候補作品に、盗用、剽窃が指摘された問題は、まだ記憶に新しいところかと思います。

 

落語には著作権がないなどと言われますが、落語の台本の公募規定には、著作権に関する記載があります。

 

学術論文では、出典の記載は絶対で、多くの研究者が数多の論文を読んでいますから、ばれないだろう…… なんてことはまずないように思います。

もしばらなかったとしたら、それはよほど読むに値しない下らない論文だと思われます。

 

ですから、拙ブログにおいても、出典の記載には気をつけておりますが、怠慢癖から、ちょいちょい不記載で誤摩化すことも少なくありません。

それでも、どこからも指摘されないということは……

人生に極上の笑いを……

人を笑わせようという人には、三つのタイプがあります。

自虐的な笑いをウリにされる方と、他者を貶めて笑いをとる族です。

自虐的な笑いをウリにされる方は他者を貶めることはありませんし、他者を貶める族が、自虐的な笑いを提供することはありません。

この二つのタイプが同席すると、自虐を専らとする方は、他者を貶める族の格好の標的になって、これが延々と続きます。

でも、自虐をウリにする方が、そこで攻撃に転じると、他者を貶める族の矛先を折ることができます。

弱い自分を隠すために他者を貶めているだけですから、あまりにしつこい場合には、一発かましてやるのがいいかと思います。

自虐をウリにしている方は、ややもすれば他かからもなめられてしまいます。

 

笑いには、相互に尊重しあう精神が必要です。

それをなくせば、笑いは悪意を包むオブラートに成り下がります。

 

もっともよい笑いは、自虐することなく、他者を貶めることのない、場を和ませるユーモアと機知に富んだ笑いです。

これこそが、極上の笑いといっていいかと思います。

 

それが分かっていながら、安易な方法に頼って誰かを笑わせようとするアタクシの、反省ブログでございます。

 

え?

(オマエのブログはいつも反省ばっかりやないかい!)