《コミュニケーションは言い訳だ》説

コミュニケーションの必要性が言われて久しいということについて、これまでもお話して参りましたが、実は根本的な問題を誤認した結果か、そうでなければ、すり替え的言い訳として、コミュニケーションの必要性が利用されているのではないかと、つい最近、考えるようになりました。

 

先日、こんな話を伺いました。

ある仕事の責任者が、緊急の案件を処理するために、複数の関係者の机上に簡単なメモを置いただけで指示を出した結果、齟齬が生じました。

別々に指示を受けた一人が、その指示を出した責任者に、生じた齟齬についての状況を説明し、次善策を求めたところ、

「私は連絡して指示を伝えた段階で、自分の責任は果たしている」

と、にべも無い答を返されたそうです。

そこで、他の関係者が受け取ったメモの指示と読み合わせてみると、齟齬が生じなかったら奇跡だと思えるほど、非常に杜撰な内容だったようです。

緊急の案件で杜撰なメモを置くだけで自分は責任は全うしているという種類の人間は、少なくないように思います。

当然、それによって物理的、精神的な被害を受けている人はその何倍もいらっしゃるわけですが、これはコミュニケーションの問題ではありません。

コミュニケーション以前の、人間性の問題です。

 

コミュニケーション術の会得、あるいはコミュニケーション能力の向上を図るための書籍が多数出版され、その類いのセミナーがいつまでも盛況なのは、コミュニケーション以前に問題のある人間の課題が、コミュニケーション能力の欠如にあるという誤解から発しているのではないかと思います。そうでないとしたら、その人の人間性を問うことになるのはさすがに憚られるので、コミュニケーション能力をその言い訳にしているのではないかと思います。

ですが、そういう人ほど、自分に問題はないと思っていますから、もしくは、自分に落ち度などないと思い込もうとしていますから、もっと言うと、自己保身に走っていますから、書籍でもセミナーでも研修でも、その効果が上がるはずはありません。

 

そう考えると、自己中心的で他者との関わり方を知らない人間、知ろうともしない人間の根本的問題をすり替えるために、コミュニケーションは利用されているだけのように思えてきます。

そもそもコミュニケーションというのは、他者との関係を円滑に……ん?

やっぱりコミュニケーションの問題かもしれません。