東寺の四天王

先日、京都の東寺に足を運びました。

何を目的として訪れたわけではありませんが、境内を歩いて食堂(じきどう)に入って目を奪われましたのが、四体並んだ巨大な四天王立像でした。

失火によって焼けただれたままの姿をそこにさらしながらも、足蹴にされている邪鬼にはそれほどの損傷はなく、それがために却って彼らの鬼気は迫っていました。

 

かつて彼らは国宝に指定されていたそうですが、今は国の宝とは見なされてはおらず、東寺では修復を願っているようです。

でも、もし、修復されて、仮に再び国宝となったとすると、炎の中にあって立ちつくす壮絶な四天王をイメージすることは、観る者から失われてしまいます。

 

戦乱で焼かれて首の落ちた奈良の大仏様も、国宝には指定されていません。

 

あるいは、人間国宝になりたいと望んでおられる御仁がいらっしゃる、という話が耳目に触れることもありますが、伝統や美術に関する概念というのは、案外、そういうものなのかもしれません。

 

春まだ浅い東寺の昼下がり。

焼けただれてなお悪鬼を踏む四天王を見上げながら、ふと、そんなことに思い巡らせていました。

 

(え? オチ?)

 

このブログに関する概念も、そうなっちゃっているんでしょうねぇ……