以前、勤めておりました塾で、睡眠時間が足りないという女性の新人講師がいらっしゃいました。
どうして睡眠時間が足りないのですか、と伺いますと、
「明日の授業で話すことを覚えないといけないから……」
学校の先生方の中には、他の先生方の前ではしどろもどろとした話し方で、何を話しているのかよくかわからない方もいらっしゃいます。
授業でも、生徒の様子には関知せず、ただ、教科書やプリントの朗読に終始する先生もおられるようです。
テレビのバラエティ番組にも台本があり、さらに出演者の前に置かれた、つまりカメラには背を向けて視聴者にはわからないモニターには、カンニングペーパーが映されているようです。
伝楽亭の田舎家かかし師は、演じた落語が百本に近いそうですが、すべてを完璧に覚えているわけではありません。
「だいたい、こんな噺で……」
てな感じで、『落語DEユーモア・コミュニケーション』で落語を語るときも、講師のアタシがその噺のどこに焦点を当てているかを確認して、そこを落とさないようにしてくれています。
流れに沿った要点さえ落とさなければ、少々飛ばしてもしくじっても問題はない、という姿勢です。
高い技術力を誇る日本の長所は〈完璧主義〉にあるかと思いますが、それは裏返すと、
「失敗は許されない」
という強迫観念になるのではないかと思います。
ただ、落語を習って話し上手になろうとするなら、完璧にこなさなければならないという固定観念を、どこかで捨てる必要があります。
そうでないと、教科書に書かれていること以外は話せない先生のように、覚えた落語以外の話はできないまま、結局は落語を習う意味を失ってしまうことになりかねません。
「先輩は、三題噺はやるのに、どうしてちゃんとした落語をなさらないんですか?」
と、後輩に尋ねられることがありますが、そのたびに、
「だって、落語を覚えるのは面倒くさいけど、三題噺はその場で適当に話を作ればいいやろ」
それを傍で聞いていて、
「キミの場合、それでしくじっていることも多いよね」
とは、例の友人の言です。