毎年、鳥取県境港市で妖怪川柳の募集が行われておりますが、入選作品を拝見しておりますと、貧乏神や死神が登場する川柳が少なからず見受けられます。
貧乏神や死神というのは、本来、神様であって、妖怪の仲間に入れるのは実に不敬な振る舞いではないかと思います。
ましてや、川柳で滑稽に詠むなどということが許されていいのか、とも思います。
これがキリスト教なら、ただでは済みますまい。
境港市出身の水木しげるさんの『ゲゲゲの鬼太郎』に登場すれば、神様も妖怪に変じてしまうということかもしれませんが、江戸の小噺でも、貧乏神がネタになっているほどですから、日本人の神様に対する姿勢というのは、元から寛容だったと言えるのかもしれません。
その川柳と俳句の線引きも、実は明確にできないように思っているのは、アタクシだけでしょうか……
俳句には季語が必要で、川柳にはなくてもかまいません。
また、川柳には、滑稽さや風刺が利いていなければならないようです。
でも、夏目漱石先生の、
『叩かれて 昼の蚊を吐く 木魚かな』
や、あの小林一茶師の、
『やせがえる 負けるな一茶 これにあり』
『かはほり(蝙蝠)や 仁王の腕に ぶら下がり』
といった、俳句は、川柳にしても十分通用するように思います。
たとえば、貧乏神を、仮に冬の季語に加えたとして、
『借金の 言い訳をする 貧乏神』
なんて俳句を作ったりなんかいたしますとどうでしょう。
俳句に真摯に取りくんでおられる皆様には、認めてもらえないかもしれません。
でも一方で、貧乏神は境港の妖怪川柳には採用してもらえなくなるかもしれません。
ということで、イソップ童話で鳥の仲間にも獣の仲間にも入れてもらえなかった蝙蝠と重ね合わせて、
『蝙蝠や 貧乏神と 影一つ』
なんて、どないでっしゃろ……
(仮に貧乏神を冬の季語にするんやったら、夏の蝙蝠と季が違う駄作やぞ!)