筑摩書房の『悪の哲学』に載っている中野好夫先生の「悪人礼讃」は、悪人と偽善者を賛美し、自分が偽善者と呼ばれることに喜びを見出しているこことが記されていますが、どうも善意と純情を厭悪する心情の裏返しのように見えます。
善意と純情を看板に生きている御仁に手を焼くというご経験をお持ちの方は、決して少なくないように思いますが、さりとて、善意を迷惑と断罪できないところが歯がゆいところかと思います。
しかし中野好夫先生は、
「善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。」
と断じて、それがいかに悪辣で始末におえないものであるかということを、述べておられます。
ということは、中野好夫先生の定義される悪とは、世間でイメージされている悪ではなく、善意と純情による行為こそが悪であり、それに気づくことなく善意と純情を表看板に掲げている人物を、悪人と定義しているということかと思われます。
そうだとすると、善意もなく純情でもない偽善者である中野先生は、悪人ではないということになるかもしれませんが、その辺り、ご当人はどうお考えだったのでしょうか……
もちろん、アタクシ、悪人でございます……