狭量な学閥と少し意固地な宗教

 先日、久方ぶりに会って知人と吞んだときに、職場における学閥が話題になりました。

「その学閥に属さない者は、非正規雇用から正規雇用にはなれない」

「おそらく、その大学を出たこと以外のアイデンティティが、その職場のトップにはないんでしょう」

 

 数日後、『裁判の非情と人情』(原田國男・岩波新書)を読んでおりましたところ、

 

  「何故、人は人を裁くことができるのかという解決できない基本的な問題」

 

 という文言と遭遇してしまいました。たぶん、以前にもどこかですれ違っていたようにも思いますが、この基本的な問題を棚上げにしたまま、私は生きているようです。

 

 聖書には、「汝、裁くなかれ」という教えがあるそうですが、信者であっても、社会生活を営みながら、誰かを裁いているのが、実際のところではないでしょうか。

 ちょいと皮肉な例を挙げるなら、地動説を唱えたガリレオは、宗教裁判で裁かれて有罪になりました。

「何故、人は人を裁くことができるのか?」

 には、

「権力者が社会を維持するために、裁くことは必要だから」

 と答えることもできるのではないかと思います。

 ただ、昨今の、ネット上における、匿名の誹謗中傷から考えるなら、

「自分は裁かれたくないけれど、他の誰かを徹底的に裁かずにはいられない」

 という心理を根底に宿している人間がいるようにも思います。

 もちろん、その心理の内に存在するモノサシは、公正な基準を装った主観、もっと言うなら、自己の優越性を満足させるためだけの代物ではないかと思います。

 所属する社会の、そのときの教え、常識に反する者は、裁いてもいい、という理屈は、もちろん、

「何故、人は人を裁くことができるのか」

という基本的な問題の答にはなっていません。

 その基本的な問題を棚上げしたまま、自己の存在の優位性を示すために、誰かを裁く口実を求めている点において、料簡の狭い学閥優先主義は、少し意固地な宗教と同じ穴に入り込んでいるようにも思います。

 

 こんなことを例の友人に語りましたところ、

「基本的な問題を棚上げにしたまま生きているって、きみ、最初に白状しているよね」