六つの上手~あなたをもっと知りたくて~

[話し上手]と思われる人に、

「どうしたら[話し上手]になれるんですか?」

 と尋ねて、

「いや、私は、ただ、聴いているだけです」

 そうお答えになったからといって、その方が、巷に蔓延っている傾聴のテクニック、つまり、ただ頷いて、ときどき相手の言葉をおうむ返しに繰り返しているだけ、などと思ってはいけません。それだけで、相手の脳を刺激することはできません。

 

 相手が、新たな解釈に自身で気がつき、また、問題の解決策を自ら考えつくためには、こちらからの[問いかけ]が必要です。

「あなたと話して、なんだかすっきりしました」

 と言って相手が笑顔を見せたとしたら、それは、[問い]が功を奏したことの証となります。

 

[問い上手]であることは、[聴き上手]の必須条件です。

 

 ただ、日本人の多くは[問い上手]であるとは言えません。

 [問う]文化もなければ、教育もされてもいないからです。極端な言い方が許されるなら、戦後教育の果てに行きついたところが、[問い]に対する正解を〝当てること、になってしまっている、ということです。ゆえに、相手の思考を促すための[問いかけ]ができない人は少なくありません。ばかりか、[問うこと]を恐れている人さえ珍しくありません。

 

 それは、沈黙を恐れる、という感情にもつながっていきます。しかし、相手が黙っているのは、刺激された脳が思案を巡らせている、思考を深めているためだと捉えるなら、沈黙を恐れて話しかけることは、相手の脳の働きを中断させることになってしまいます。沈黙を恐れず、[問いかけ]たあとは、相手が口を開くまで待つ勇気も必要です。

 

 また、[問い]に[意図]があることを、多くの方は認識できていません。

 うっかりしていると、[投げかけられた問い]に踊らされてしまいます。踊らされてやってしまうのが、ネガティブな自問自答です。

「やっぱり、私はダメな人間なのではないか?」

 自問も[問いかけ]には違いありませんが、それは、自身の脳を刺激して新たな考えや解決策を導く[問い]ではありません。誰かがあなたを傷つけることを[意図]した〝計略〟によって思い込まされた結果の自問であったとしたら、その答は、自己否定に決まってしまいます。 

 引っ掛かりそうになったときに自分にかける[問い]は、

「ほんとうにそうか?」

 です。

 

 [問い]には、問う者の[意図]があります。問う者の〝欲求〟に根差した〝目的〟が隠されています。

 たとえば、

「煙草を吸ってもかまいませんか?」

 これは、許可を得るための[問いかけ]で、自分の〝欲求〟を満たすことを[意図]していることの、わかりやすい例です。

「どう責任を取るんですか?」

 不祥事を起こした人物、組織の責任者を糾弾するときに、この[問い]が常套的に飛ばされますが、これには、己が正義の使徒であることを周囲に知らしめようとする[意図]が見て取れます。

「間違っていますか?」

 これは、念を押して次の展開を図ろうとするときに使われる[問い]ですが、自分が正しいことを相手に認めさようとする[意図]も隠されています。

「あなたにも反省するべき点があるのではありませんか?」

 これが、相手を傷つけることを〝目的〟とした[問い]の典型です。問われて自問自答した末に傷つく相手を見たい、という〝欲求〟が垣間見えます。

 おまけをつけます。

「わかっているのか?」

 これは、「おまえはわかっていない!」ということを前提にした反語です。だから、「わかっています」と答えることは許されません。

 いずれも、自己中心的な[問い]です。[問い]をカモフラージュにした、いわば自己宣伝です。

 

 相手の話に、

「それは、おかしいと思いませんか?」

 と[問う]のも同じです。[問われた]人は、自らの思考を深めることなどしません。抵抗すら試みます。

 でも、これを、

「それは、つまり、どういうことですか?」

 と言い換えると、相手は説明するために考え、さらに言葉を探します。

「どうしてそう思うんですか?」

 とすると、述べるべき理由、根拠も改めて考えます。

 こちらの求める答を言わせるためではない、相手の脳を刺激する[問い]に変換する。

 これに、

「教えてください」

 を添えます。

 

 本来、[問い]の出発点は、知りたいという純粋な好奇心です。好奇心は、知りたいという〝欲求〟には違いありません。しかし、問題は、そうではない自分の〝欲求〟から[問い]を発するところにあります。

 自分のためではなく、相手への関心から[問いかける]ことが、[問い上手]の要諦です。

「あなたのことを、ボクはもっと知りたい!」

 という告白と同じです。