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語彙力こそが教養である 〜落語で語彙力は増強できるのか〜

明治大学文学部の齋藤孝教授の『語彙力こそが教養である』(角川新書)には、語彙力を涵養するための方法が記されています。

古典から近代の名著、漢籍、歌舞伎、歌詞にいたるまで、語彙力を養成する題材の中に、落語が示されています。

 

著名な齋藤孝教授に示唆されるまでもなく、アタクシどもの世界に住まい致します輩は、皆、落語で使われる語句を自在に駆使しております。

あほなことを言うてるもんには、

「あんさん、普通のお方やおまへんな」

 

くだらんアイデアを言い出すもんに、

「それ、具体的にどないすんねん」

と尋ねると、

「さあ、それをあんたに相談にきたんや」

 

アナゴがおいしいてな話題になったら、

「ワタイ、アナゴよりオナゴがすき!」

 

カラオケで歌い手より声高に合いの手を入れるもんには、

「やかましわい!」

 

もう、いくらでも出て参りますから、アタクシども、そろって語彙力があるということになりますが、こんな落語の言葉や言い回しを世間様で使いますと、不審者のように見られます。

今までは、

「ワレワレは、一般的な人たちとは異なる世界に住んでいるんだから仕方ない……」

とばいかり思い込んでおりましたが、齋藤孝教授の『語彙力こそが教養である』を拝読いたしまして、

「なんだ、ワレワレを奇異な目で見る人たちって、実は語彙力のない、無教養な人たちなんだ」

と、納得しました……

 

え?

(それは語彙でも教養でもない。単なる身内で受けてるだけのネタや!)

 

……ええと、ツッコミを入れられて困ったときには……

「ばんざ〜い! ばんざ〜い!」

え?

(それも、知ってる人しかわからへんぞ!)

失言の理由

失言によって、またしても政治家が辞任しました。

 

別に政治家に限らず、失言が命取りになる人は、世の中、少なくないように思います。

どうして失言してしまうのか、と申しますと、たぶん、失言をしてしまう人は、言ってはならないことをいつも考えていて、それを口にしてはいけないと思えば思うほど、よけいにどこかでそれを口にしたくなる揺動にかられるからではないかと思います。

 

覗いてはいけないと言われて、余計に覗きたくなる衝動が抑えられなくなった、昔話『鶴の恩返し』のお爺さんとお婆さんのように、却って気になって気になって仕方がなくなる、という心理と同じように思います。

 

だったら、決して覗いてはいけないとか、言ってはいけないとか、そんなタブーを最初から課さなければいいのではないかとも思います。

 

その点、アタクシなんぞは、ほにゃらしてはいけないなんてことに縛られて生きているわけではありませんから、失言のしようはありません。

 

なんてこと偉そうに例の友人に話しましたところ、

「キミの場合、発言が注目される立場にないだけで、失言だらけの毎日を送っていることに気づいていないんだよ」

なんてことを申しましたので、

「だって、気づいてしまったら、生きていけないもん……」

護身と保身の会話術

世間では、暴力から身を守る術を護身術と言い、自分の地位や立場を損なわないように立ち回る方法を、保身術と表現しているようですが、会話にも、両者が存在するように思います。

 

その保身術を、最近、立て続けに受けてしまいました……

一つは、アタクシが依頼したことを一度は引き受けた相手から、途中で依頼内容に非があるように言われたことです。

依頼するにあたり、引き受けてくれなくても構わない旨も伝え、依頼の趣旨も説明したつもりでしたから、アタクシ、面食らいながらも多少の抗弁を試みました。

でも、結局、会話はかみ合うことなく、相手はアタクシの依頼を途中で放棄してしまいました。

もしかすると、その方は、途中で依頼された事案に応えるだけの力が自分にないことに気づかれて、それを糊塗するためにこちらに非があるように申し立てたのでのはないかと、あとで思いました。

 

二つ目は、アタクシが相手の非を指摘したときでした。

通常は、それでその状態が改善するケースだったのですが、こちらが指摘した点は棚に上げて、あたかもアタクシが間違っているようなことを相手が言い出しましたので、久しぶりに70%ほどのパワーで激してしまいました……

このパターンは、以前にも何度か経験しておりましただけに、アタクシ、70%激するのではない方法を選択すべきだったと、反省しきりでございます。

 

アタクシが勝手に考えているだけでございますが、いずれも、相手が保身に走ったがための会話術かと感じております。

 

保身の会話術は、良好な人間関係を構築しません。

ですから、アタクシ、自分に非があるような場合は、すぐに謝ります。

いまさら保身に走らなければならないプライドや立場なんてものはありませんから……

もちろん、自らそんな会話術を用いることはいたしませんが、ただ、そんな保身の会話術を受けてしまうのは、やはりこちらの不徳の致すところなのでありましょう。

 

よりよい会話の方法の一つとして、相手の非を責めてはいけないということがよく言われますが、これこそ、護身の会話術ではないかと思います。

 

こんな話を例によって例の友人に話しましたところ、

「キミの場合、護身や保身の会話術を云々する前に、あっちでこんなことを言い、こっちであんなことを言い散らかしては、相手を煙に巻くような分身の会話術をやらかしている自分を改めるのが先だろう……」

「ありがとうございます!」より幸運を呼ぶかもしれない「いつもありがとうございます!」

「ありがとうございます」

という言葉は、親切にしてもらったり、恩恵を授かったりしたときに、多くの人が使います。

 

「いつもありがとうございます」

という言葉は、親切にしてもらったときや恩恵を授かったときにかぎらず、仕事で継続的に接する常連や日常的に個人的な交際がある人に対して使います。

 

ただ、宝くじ売り場の窓口では、言い辛い言葉です。

何しろ、毎度はずれているから、常連となって買いにくるわけですから、そんな人に、

「いつもありがとうございます」

とは言えません。

 

もちろん、毎度はずれる宝くじを購入している買い手の口からも、そんな言葉は出ませんが、購入した宝くじにいつも打ち出の小槌を振ってくれる窓口の女性に、先日、

「いつもありがとうございます」

と申し上げましたところ、非常に感激された様子で、

「こちらこそ、いつもありがとうございます」

と、満面の笑顔を返してくれました。

 

まだ抽選は行われていませんが、何だかそれだけで幸運を得たような気持ちになりました。

もしかすると、1等が当たっているかもしれません。

 

それなら、普段、

「いつもありがとうございます」

と言えない相手に言ってみる価値は、かなりあるように思いましたので、近所の葬儀屋さんに、

「いつもありがとうございます……」

 

さすがに、困惑されていました……

《そこまで言って委員会NP》を見るジレンマ

本日の《そこまで言って委員会NP》のテーマは、武士道でした。

日本人は道が好きだとか、武士道には定まった概念がないのではないかとか、騎士道との比較だとか、あるいは台湾出身の金さんの見方だとか、改めて俎上に乗せられた武士道は、なかなかに面白いものでした。

 

桂ざこばさんは、

「師匠から注意されて、若手は噺家道を学んで行く」

てな例をあげ、最後には、ジャーナリストには、道はないけれど、後ろに魂がつくなんて話から、最後は辛坊治郎さんが、

「ジャーナリストは、報道……」

で、番組のオチにしたのを拝見して、

「うまい!」

と思わず膝を打ってしまいましたが、それでは桂ざこばさんが、レギュラー道に反するのではないか、とも思ってしまいました……

 

ただ、取り立てて問題になるような話題ではないだろうと思っているところに、不意に発言が伏せられ、次の瞬間に爆笑が起こっておりましたところを見てしまいますと、また、スタジオに行きたくなってしまいます。

でも、そんなことなら、いっそ見ない方が、精神衛生上よいようにも思います。

といって、見なければ見ないで、ブログのネタを失ってしまうことにもなって……

 

来週、どないしょう……

もう一度言う。「俺を試すな」

外務省のホームページに掲載されたゴルゴ13の、

「俺を試すな」

という台詞は、最近、現実の外交場面でも使われました。

某K国が、お得意の、

「無慈悲な」「雷が落ちて」「地獄を見るだろう」

発言に、アメリカが、

「アメリカ大統領を試すな」

と応じたときには、すぐにも拙ブログのネタにして、

「読者を試すな……」

というオチにしようかと思いましたが、うまく繋ぐことができませんでした。

 

え?

(そんなざまで、よく繋ぐ話ができたな!)

 

おっしゃるとおりでございますので、

「試すな」

が実際に使える場面を考えてみました。

 

学校で授業中に先生に質問されたら、

「俺を試すな」

 

逆に、生徒に質問された先生は、

「俺を試すな」

 

職場でミスを犯してしまったときに上司に呼ばれて、

「どういうことなんだ」

と詰問されたら、

「俺を試すな」

 

反対に、部下に、

「明確に指示してください」

などと迫られた上司は、

「俺を試すな」

 

記者会見なんかで、ときどき発せられる、記者の挑発的な質問に対して、つい、感情的になって応じてしまう政治家がいらっしゃいますが、そんなときにも、

「俺を試すな」

 

妻や恋人、愛人なんかから、

「ほんとうにあたしを愛しているの?」

と問い詰められたら、

「俺を試すな」

 

ただ、いずれの場合も、ゴルゴ13や大国アメリカとは違う立場にあるということは、分かって使わなければなりません。

                                   デンデン

 

サワコの朝から〜夏目三久さんの教え〜

今日の『サワコの朝』(MBSテレビ)のゲストは、フリーアナウンサー夏目三久さんでした。

小学生のころに本読みでほめられてアナウンサーを想い、身体で何か表現したいという思いから中学高校で新体操部に入り、大学では当時、小物が流行したベトナムに関心を持ってベトナム語を学び、そこで教授から、

「外国語の上達は、日本語の習熟度に比例する」

と言われて、ゼミでは日本文化を専攻した結果、日本語を活かせる職業として、小学生のときに思い描いたアナウンサーを選んだそうです。

「人生は、つながっている」

ということを、まさに体現されているようなお話でした。

 

欧米の文化の発想の根底には、繋がりではなく、区切ることがあるようにあるように思います。

明確に区切って、場合によっては敵対する。

自然の中に住む日本人とは反対に、自然を制しようとする。

医療においては、体全体の繋がりを重視する東洋医学に対して、人体をパーツの集合体のように考えているように思い返す。

 

ですから、欧米文化の成果の一つでもある資本主義が標榜する合理主義やら功利主義やらが社会で幅を利かせる、区切る社会で生きているうちに、そんな発想を自分の人生に持ち込む方も少なくないのではないかと思います。

 

たとえば、

「ムダなことはしない」

という発言は、一見、理にかなっているようにも思われますが、そのムダに見えることが、実は自分の人生のどこかに繋がっていることに気づかない自分を世間に表明していることになるのではないかと思います。

 

こんなことを例の友人に語りましたところ、

「キミの場合、ムダなことしか繋がっていない人生なんだよね……」

とか、

 

え?

(こんなムダなブログもどこかに繋がっているのか!)

とか、

 

「いつものパターン化したオチをつけるのか……」

なんてことではなく、

「金曜日には外務省のゴルゴ13を取り上げて、土曜日は『サワコの朝』を話題にして、そして明日、日曜のネタは『そこまで言って委員会NP』か?」

と、ツッコミを入れられた方は、繋がりがよく見えていらっしゃる方だと思います。