3月8日と3月9日の商品価値

 本日、3月8日は、『国際女性デー』です。

 2月に『バレンタインデー』がデケてから、いつのまにか、3月に『ホワイトデー』なるモノがデケていました……

 5月に『母の日』がデケてから、気が付くと、6月に『父の日』なるモノがデケていました……

 この流れでいくと、いずれ4月に『国際男性デー』なるモノがデケるのではないかと思いますが、電車や地下鉄で『女性専用車両』は誕生しましたが、いまだに『男性専用車両』はデケておりません。

 もしかしたら、『国際LBGTQ+デー』はそのうちに制定されるかもしれませんが、これに対応するような『国際?デー』は、はたしてデケるのでしょうか?

 

 いわゆる、記念日や何とかデーの誕生には、おおむね、次の三つのパターンがあるように思います。

 一つは、子々孫々、忘れてはならない、記念日でしょう。

 二つ目は、商売になる日です。

 忘れてはならない『終戦記念日』は学校で教えていますが、年間のチョコレートの売り上げの、少なくとも10パーセント以上を占めるとされる『バレンタインデー』を教える学校はありません。

『国際女性デー』は、三つ目の、啓発を目的として制定された日です。

 個人の価値観によってどれを重要視するか、という点については、議論の分かれるところになるかとは思います。

 ただ、残念ながら、これら三つの中でもっとも注目されないのは、この啓発の日ではないかと思います。少なくとも、その日一日、あれやこれやイベントがあって盛り上がったとしても、明日になれば忘れられてしまいます。

 ちなみに、明日は、定番ともいわれる卒業ソング、レミオロメンの歌う『3月9日』です。この時期、カラオケでもよく歌われているようです。

 どさくさに紛れて申し上げるなら、3月はアタクシの……

 え? そんなことは聞いてない? やっぱり……

昭和擁護論

 某企業の役員を務めておられた方が定年退職後、関連企業の外部役員となって会議で発言したところ、

「それは、昭和の考え方でしょ」

 と一笑に付されたそうです。

 ご本人は、

「わしの考えなんぞは、もう通用しない時代になったんだな……」

と、ひどく落胆されていましたが、『昭和は古い』というイメージがいつのまにか世の中に定着してしまっている感があります。

 でも、会議でこんな発言が出る企業には、明るい未来はないように思います。なぜなら、温故知新の発想などまったくないばかりか、令和にふさわしい何かすばらしいアイデアがあるはずだ、という幻想に憑りつかれていることが窺えますから。

 『歴史は繰り返す』、という言葉が真実なら、昭和、いう言葉を用いて、一括りに時代遅れの遺物であると否定する者には、新たな天啓が与えられることはありません。ばかりか、過去に犯した過ちを繰り返す可能性も否定できません。

 さらに、時代が進むと、

「それは、平成の考え方でしょ」

「それは、令和の考え方でしょ」

 などと言い換えられて、昭和を否定した者はのちの時代の人間に否定される憂き目を見ることにもなるでしょう。

 その時代の元号を冠した政党なんぞは、そのうち、歴史の古い与党より遅れた発想しかできない団体としてイメージされるかもしれません。

 昭和を侮る者は、時代を軽視する族であると言えるのではないかと思います。

 

 こんなことを例によって例の友人にいたしましたところ、

「キミの場合、時代についていけていない自分を擁護しているだけだよね」

オブラートに包んだ悪意の言葉

 先日、ある女性と話しておりましたら、

「私には男っぽいところがあります」

とおっしゃって、

「自分で考えて判断して行動するところ」

を、理由にあげていらっしゃいました。

 そのときは、

「ああ、そうなんですか……」

てな、応答しかできませんでしたが、欧米だったら、そんな思い込みにとらわれる女性はいないのではないかと、今頃になって思っています。

 ドイツのメルケル首相をはじめ、欧米には女性の政治家、リーダーが数多くいらっしゃいます。それは、つまり、自分で考えて判断し、行動する女性の存在が、決して珍しくないということを意味しています。

 だとしたら、自分で考えて行動できる女性を、男っぽい、と評する方に問題があるように思います。

 いやいや、自分で考えて行動する者に、男女いずれかのレッテルを張り付けること自体が、ナンセンスではないか、とも思います。

 もしかしたら、その女性は、自らそう感じたのではなく、誰かに言われて、自分自身を男っぽい、と思い込むようになったのではないか、なんてことまで勝手に想像してしまいます。

 しかし、もしそうだとしたら、彼女にそんなことを吹き込んだ者に、悪意があったのではないか、てな疑念まで持ってしまうのは、やっぱりワタクシが歪んでいるせいかもしれません。

 

 悪意が、ここでは、殺人犯が持つ殺意などを必ずしも意味しません。相手にちょっとした精神的な傷を与えようとする意志を指します。一見して悪意とは感じさせないような、言葉のオブラートに包まれて投げつけられる悪意です。

「あほ、ぼけ、かす、ぷっぷ~!」

てな、そんな直接的な言葉ではありません。

 だから、

「あなたって、男っぽいところがあるよね」

という、単純な感想にしか聞こえないような言葉に、本当は傷ついたという経験をお持ちの女性は少なくないのではないかと思います。

 たとえば、

「あなた(君 お前)はまだ結婚しないの?」

なんてのは、その筆頭と言えるでしょう。さらに、

「あなた(君 お前)のためを思って言っているんだ」

てなお為ごかしぐらいが続いて、

「あなた(君 お前)らしくない」

とか、あるときは疑問形にして、

「あなた(君 お前)は何がしたいんだ」

とか、また、あるときは、

「あなた(君 お前)のことがよくわからない」

とか、いかにも[あなた]を理解しようと努めている、てな素振りを見せるといった手練手管を駆使して[あなた]にスポットライトを当てる。しかし、そのセリフのほとんどは、発言者のイメージの枠の中に[あなた]を閉じ込めておかないと自分の自信が失われてしまう…… そんな身勝手な思いがあるのではないかと、これも勝手に想像してしている次第でございます。

 でも、そうやって、気づかれぬように悪意を投げつける族ばかりかではないかもしれません。そんな意識すら持たずに、自分は相手のことを本当に思っているんだと信じて、してのける手合いもいるでしょうが、その方がもっと質が悪いかもしれません。

「戸締り用心火の用心、悪意の言葉は打ち返せ カ~ン!」

 

ここまで例の友人に話したところで、

「それで、キミは何が言いたかったんだ?」

悪い結果を招くかもしれない不善に気づかず閑居する小人

 高校で所属していたクラブの娘さんが卒業するので、その保護者(主にお母様方)が集まって、卒業記念の何やかやを作る作業をさせられたという方が、

「高3の娘にそこまで親がしてやるというのは、どうなんでしょうね。放っておいていいように思うんですけど……」

 と、先日、おっしゃっていました。

 それで、

 [小人閑(間)居して不善を為す]

 てな言葉が、ふいっと脳裏をよぎりました。

 『小人』は〝つまらない人物〟〝徳や品性のないない人物〟を意味し、〝暇〟であることを『閑居』と言います。もともとは門構えの中には月、あるいは『間居』と書いて〝独り暮らし〟を意味するようですが、一般には、

「つまらない(独り暮らしの)人間が暇になるとよからぬことをする」

 と解釈されています。

 閑居、間居、いずれにしても、つまらない人間が暇を持て余してしでかすのは、不善、よくないこと、ためにならないことです。といっても、決して悪事ではありません。悪事なら具体的なイメージができます。

 しかし、不善、はどうでしょう。酒に溺れるとかギャンブルにのめりこむとか、そんなことが考えられます。もちろん、その先に悪事が待っているかもしれませんが、そこには、まだ至りません。

 けれども、酒やギャンブル以外にも、もしかしたら、悪い結果を招くかもしれない不善があるのではないかという気が、以前からなんとなくしておりました。

 卒業を間近に控えた高校生に、積極的にそこまで手をかける保護者は、おそらく、家でも同じようなことをしているのではないかと思います。つまり、余計なお世話を焼いて、もしかしたら、本人の自主性、言い換えるなら、選択肢を考えて自分の意志で選ぶことを阻害し続けていることに気づかぬばかりか、自分はよいことをやっている、と信じているのではないでしょうか。

 また、そこまでする必要もない、放っておけばいいとお考えの方にとっては、保護者が集まって我が子の高校卒業記念に何かしてあげようという企画に巻き込まれるのは、時間を取られるだけの、迷惑な話ではないかと思います。

 ほんとうは自己満足でしかないのに、子どもたちが喜ぶだろう、と勝手に思い込んで、そうしたことを積極的に推し進めようとされる方こそ、暇を持て余している**、と言えるのではないでしょ……

 

 例のごとく例の友人にここまで話しましたところで、

「キミは、世の中のお母様方の大部分を敵に回すつもりなのか?」

 と、レッドカードを突き付けられました!

 

ユーチューブ洗脳による非常に不愉快な御仁

 最近は、講義形式の学問系ユーチューブや思想系ユーチューブが出回っているようで、これに汚染された人に、先日、居酒屋で不快な思いをさせられました。

 ご自分が視聴されたユーチューブについて、私に説明するところまでは、まあ、よかったのですが、その内容について、私が疑問を投げかけ、あるいは違和感を示した、つまり、納得同意しなかったときに、

「おまえ、もっと勉強しろ」

 と、その方はおっしゃいました。

 その主張は、学校教育では学ばなかった内容で、これまで培ってきた私の根本的な考え方からも外れていました。その点を疑問点として問い、不審を見せた私に、どうして、

「おまえ、もっと勉強しろ」

 と、おっしゃたのか?

 勉強しろ、の具体的なメッセージは、同じユーチューブを観ろ、ということです。そのユーチューブを観て説明している俺の言うことに理解を示さない奴は、勉強不足だと決めつけているわけです。

 ユーチューブやその他ネット上で示された考え方に同意、共感するのは、新聞テレビ雑誌書籍に感化されるのと変わりません。だから、それをどうのこうのとは申しませんが、そのまま何ら疑問を持つことなく、自身の考えとしてしまう点に、いちばんの問題点があります。つまりは、自ら思考する行為を放棄している、ということです。

 次に問題となるのは、それを、自分の周囲にいる誰かに話して、自己承認を求める行為です。

 承認欲求を満たすために、そのユーチューブを利用している自分に、気づかないところに、第三の問題点があります。

 自分の頭で考えなかったことですから、疑問を提示されても適切に答えることはできません。自分の頭で考えていたことなら、持ち出された疑問に適切な答を述べることができますし、新しい視点やほかの考え方に気がついて、さらに己の思考を深めることができます。しかし、自分の頭で考えることを放棄してユーチューブで示された誰かの考えを見せびらかす人間には、それができるはずはありません。困った挙句に出てくるのが、

「おまえ、もっと、勉強しろ」

 つまり、

「悪いのはお前だ!」

です。

 いわゆる上から目線による、押しつけです。

 承認欲求を満たすのが目的ですから、そうなってしまうのは当然です。

 しかし、そんな仕打ちをされて我慢できるほど、私は人間ができていませんので、ささやかな抗議を試みました。

 このように整理した形ではありませんが、その趣旨を、できるだけ穏やかに先方に伝えたつもりでしたが、周囲のお客さんや居酒屋の店員さんに、ちょっとだけ注目されてしまいました……

 もちろん、そのお方とは、居酒屋を出てから、いつものようにカラオケにまいりました……

狭量な学閥と少し意固地な宗教

 先日、久方ぶりに会って知人と吞んだときに、職場における学閥が話題になりました。

「その学閥に属さない者は、非正規雇用から正規雇用にはなれない」

「おそらく、その大学を出たこと以外のアイデンティティが、その職場のトップにはないんでしょう」

 

 数日後、『裁判の非情と人情』(原田國男・岩波新書)を読んでおりましたところ、

 

  「何故、人は人を裁くことができるのかという解決できない基本的な問題」

 

 という文言と遭遇してしまいました。たぶん、以前にもどこかですれ違っていたようにも思いますが、この基本的な問題を棚上げにしたまま、私は生きているようです。

 

 聖書には、「汝、裁くなかれ」という教えがあるそうですが、信者であっても、社会生活を営みながら、誰かを裁いているのが、実際のところではないでしょうか。

 ちょいと皮肉な例を挙げるなら、地動説を唱えたガリレオは、宗教裁判で裁かれて有罪になりました。

「何故、人は人を裁くことができるのか?」

 には、

「権力者が社会を維持するために、裁くことは必要だから」

 と答えることもできるのではないかと思います。

 ただ、昨今の、ネット上における、匿名の誹謗中傷から考えるなら、

「自分は裁かれたくないけれど、他の誰かを徹底的に裁かずにはいられない」

 という心理を根底に宿している人間がいるようにも思います。

 もちろん、その心理の内に存在するモノサシは、公正な基準を装った主観、もっと言うなら、自己の優越性を満足させるためだけの代物ではないかと思います。

 所属する社会の、そのときの教え、常識に反する者は、裁いてもいい、という理屈は、もちろん、

「何故、人は人を裁くことができるのか」

という基本的な問題の答にはなっていません。

 その基本的な問題を棚上げしたまま、自己の存在の優位性を示すために、誰かを裁く口実を求めている点において、料簡の狭い学閥優先主義は、少し意固地な宗教と同じ穴に入り込んでいるようにも思います。

 

 こんなことを例の友人に語りましたところ、

「基本的な問題を棚上げにしたまま生きているって、きみ、最初に白状しているよね」

『福田村事件』と『君たちはどう生きるか』

 たとえば松本清張先生の小説を読んでおりますと、その犯行が行われた時間、「映画を見ていた」と容疑者がアリバイを述べる場面があります。

 営業なんかで外回りをしているけれど、気晴らしに映画を見ていた、という供述は、最初から見たい映画を決めていたのではなく、映画館で、たまたま上映していた映画を観た、ということでしょう。

 そのやり方で、私もちょいちょい映画を観に行きます。

 近年は、シネマコンプレックス、複数のスクリーンでいくつかの作品を上映する映画館がありますから、空いている時間に行って、たとえば十分後とか三十分後とか、とにかく一番早く上映が始まる映画を観る、てなことをやっております。

 昨年、秋ごろ、大手の映画会社の影響下にはない、いわゆるミニシアターで、そうして観てしまったのが、森達也監督の『福田村事件』でした。館内に貼ってあるポスターだけを見てチケットを買って…… 

 その『福田村事件』は、現在も上映されています。ミニシアターで数か月にわたって上映される映画は、非常に珍しいのではないかと思います。

 宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』も、昨年夏から封切られて、やはりロングヒットとなっているばかりか、先ごろ、アメリカのゴールデングローブ賞、アニメ映画賞を受賞しました。

 しかし、『福田村事件』には何もありません。

 世間で評判になっているから見た、読んだ、行った、というものよりも、たまたま自分だけが発見したという喜びを、できれば毎日、得たいようにも思います。

 映画館に限らず、ふらりと立ち寄った先で、そんな幸せが得られるかもしれない、と思いながら、さて、今日はどこへ行きましょうか?