俳句と川柳は、どう違うのでしょうか?
学校で習った通りなら、五七五という定型の中に、季節を表す季語を必ず読み込まなければならないのが俳句です。と言いながら、季語もなければ定型から外れている無季自由律俳句も、教科書には記載されています。
ところが、同じ定型の川柳は、国語の教科書には記されていません。
川柳に季語は不要ですが、その違いだけで、どうして川柳は俳句ほどに学校で教えてもらえないのでしょうか?
『古池やかはづ飛び込む水の音』
松尾芭蕉の俳句は高尚で、
『これ小判たった一晩いてくれろ』
といった、庶民の生活を詠んだ川柳は、高尚ではないからでしょうか……
でも、小林一茶の、
『雀の子そこのけそこのけお馬が通る』
『やせ蛙負けるな一茶これにあり』
が、松尾芭蕉の俳句のように高尚かというと、さて、どうでしょうか。
『汚れても汚くはないユニホーム』
『相合い傘濡れてる方が惚れている』
と、変わらないのではないかと思います。
ところで、俳句の季語は、時代の変化とともに増えています。
先日、ふと、
「新しい季語を、いったい誰が決めているのだろう」
と疑問に思い、それを口にしたところ、傍にいた人がすぐに調べてくれました。
それによると、季語を決定する公の団体があるようです。
決定するに当たっては、定められた何らかの規定を基に、複数の委員が話し合っているのでしょうが、それも美人コンテストと同じだと思いました。
将来、川柳が俳句と同等の扱いを受けるようになったとしても、絶対に教科書には記載されない川柳を、これを書いているうちに考えついてしまいました。
〈美人とは俺が選んだ女なり〉
でも、誰も私を選んでくれないところが辛いところで……