『宗論』は、落語だからと言うよりは、日本だからこそでけた噺やないかと思います。
「神様と仏様、名前が違うてはおりますけれど、いずれもおんなじお方」
という番頭のセリフが象徴するように、目に見えない大きな力、エネルギーのような存在を、世界の東西南北問わず人間は感じ取っているのではないかと思いますが、それぞれに固有の名前がついて、ストーリーが生み出されて信じる人々が増えてまいりますと、他の名前の神さんを排斥しなければならない状況になってしまうようです。
特に、その人のアイデンティティーに関わってまいりますと、感情的になって他の神を攻撃しなければ収まらなくなるようです。
『宗論』では、その役割を仏壇屋の親旦那が引き受けて、キリスト教にはまって教会に入り浸る倅の作次郎と対立する構図を、うまくこしらえています。
あんまり目立ちませんが、間に入る番頭がまたええ塩梅にこしらえてありまして、この番頭がいてへんかったら、この噺、収拾がつかんようになっていたかと思います。
そもそも宗教とは、人々の苦悩を取り除き、争いをなくすことを役目としているモノやと、ワタクシは解釈しておりますが、それが逆に騒動の種になってしまっては、落語にして笑い飛ばすしかありません。
なんて人々の思いも、この『宗論』には込められているのかもしれません。(知らんけど😵)
本日、早朝、キリスト教が嫌いで八百万の神々を信じる、僧侶の資格を持った友人よりメッセージが届きました。
「神さんが人をつくったのか?人が神さんをつくったのか?そして今、神さんが人を守って下さるんか?人が神さんを守っているんか、わからへん」
それに、
「遍く人に仏性があるなら、その仏性の存在するままに今という刹那を甘受するのみ」
てな、禅問答みたいなメッセージを返して、本日『宗論』書きました。
デンデン