「怪談噺の型」
と、おっしゃいながらお語りになった、二代目露の五郎師(二代目露の五郎兵衛師)の『怪談市川堤』を拝聴しましたのは、もう昔のことでございます。
桂米朝師も、同じく『怪談市川堤』を「怪談噺の型」とおっしゃっていますが、残念ながら、他の上方落語でこの型、つまり、
「げに恐ろしき執念じゃなぁ~」
と落とす落語を聴いたことが、ワタクシ、寡聞にしてありません。
ということは、恐ろしき執念による話が、日本にはそれほど多くはなかったのではないかと考えることができます。
怪談は、本来、人間社会が生み出すものかと思います。
もちろん、創作と言う視点から考えて人間が生み出したと言えますが、そもそも、社会で生きて、なんらかの怨恨、憎悪、執着を持った人間が死ななければ、怪談の主人公である幽霊は出現できません。
幽霊が出てきて怖いのは、その幽霊に、それはもしかしたら自分かもしれない誰かが憑りつかれて殺されるところにあります。
三遊亭圓朝師の『牡丹灯籠』は、まさにそうした本格の怪談かと思いますが、これも元をたどれば中国物の翻案です。
『怪談市川堤』も、どうも忠臣蔵の派生的な物語としてこしらえられた歌舞伎やら講談やらをヒントに創作されたモノのように思います。(知らんけど😵)
そんなこんなから考えましたら、上方落語には、ほんまに人を怖がらせるような噺はでけへんような土壌があるのも当たり前かと思います。
ただ、三遊亭圓朝師の『真景累ヶ淵』や、江戸落語の『もう半分』を観ますと、巡る因果がどのように祟っているのか、そこに、落語の怪談のもう一つの恐ろしさがあるようにも思います。
現代社会の本当の怪談は、それを、知ろうともしない、わかろうともせずに笑い転げている人々の人生かもしれません。
それ、おまえのことやろ!
デンデン