インタビューここから〜久米明さんの言葉〜

祝日の朝、NHKで《ここから》というインタビュー番組が放送されています。

今日のゲストは、93歳の現役ナレーター、久米明さんでした。

 

「何をしゃべるかより、なぜしゃべるかを考える」

「なぜこの台詞をしゃべるのか、なぜを掘り下げる」

 

これは、書くことにつていても言えることかと思います。

 

時代(歴史)小説の公募作品には、史実を並べてつじつまを合わせるような作品が少なくないようです。

シナリオの公募作品には、ストーリーを展開させるための台詞が書かれた作品が少なくないそうです。

 

「登場人物が勝手に動き出す」

といったことを小説家や漫画家が口にされることがありますが、それは、

「なぜこの作品を書くのか」

「なぜこの台詞なのか」

と考えていった結果のように思います。

でなければ、ウケを狙った薄っぺらな作品しか生み出せないように思います。

 

久米さんは、ナレーションの原稿を書かれた方の〝なぜ〟をお考えになるそうです。

 

書くことでも話すことでも、〝なぜ〟を考えずに一流にはなりえないということかと思います。

放送を見ながら、

「インタビューされておられた小野文恵アナウンサーは、なぜ、いつもあんなにかわいいんだろう……」

なんてことも考えましたが、アタクシも、常に〝なぜ〟と考えていることがございます。

「なぜ、アタシの人生はこんなことになっちゃったんだろう……」

忍びの国

今日は、中村義洋監督の《忍びの国》(原作・和田竜さん)を見てきました。

封切りから一ヶ月以上も経ってから観にいくと、結構ゆっくり見られます。

 

時代劇、特に忍者が登場する映画の魅力の一つは、やはりアクションシーンにあるかと思います。

見ていて、若い頃、千葉真一さん率いるジャパンアクションクラブの映画の斬新なアクションシーンに圧倒されたことを思い出しました。

 

大友啓史監督の《るろうに剣心》(原作・和月伸宏さん)のアクションシーンにも瞠目いたしましたが、《忍びの国》のアクションも堪能いたしました。

 

もう一つ、主人公が、伊賀の国一番の忍びでありながら、正義だとか約束だとか、そんな価値観にとらわれることなく、淡々と生きながらも、打算で動く人物であるところに魅力を感じました。

ただ、それもこれも生きるか死ぬかの修羅場を潜り抜けて生き残ってきたからだということも感じ取れる内容で、そういう意味でも、大人の映画だったように思います。

 

その他、仕掛けもいろいろある映画で、たいへんよろしゅうございました。

 

え?

(ブログのネタがなかったんやろ!)

 

なんでわかりました?

え?

(昨日もそうやったやないかい!)

恐い絵展

兵庫県立美術館で開催中の《恐い絵展》に、本日、行ってきました。

 一番の目玉は、結婚して女王になってわずか9日で処刑された〈レディジェーングレイの処刑〉です。

実際の処刑は屋外での公開処刑だったようですが、作者ラロージュ氏は、それをあたかも室内で処刑される直前の場面を、舞台で見るかのように描いているそうです。

見応えがありました。

でも、恐い絵ではありません。

 

〈レディジェーングレイの処刑〉に限らず、一つ一つの絵に恐怖を感じることはありませんでしたが、全体を通してみて、男にとってはやはり女性が恐い存在だということを改めて思いました。

個人的には、ドレーバー氏の〈オデュッセウスとセイレーン〉に強く、魅かれました。

半人半魚の三人の魔女セイレーンのうち、海から船に乗り込んだ二人には人間の足があり、まだ海中に残るもう一人の下半身は魚という絵で、アタクシなら、間違いなく彼女たちの虜になって海に引きずり込まれてもいい……、いえ、幸せだと思いましたから、絵はがきを買ってしまいました。

 

他にも、〈叫び〉でお馴染みのムンク氏の独特の作品もいくつかあり、いろいろ紹介し出したらきりがないほどの展覧会でした。

 

ただ、最期には、

「やっぱり恐いのは人間だ」

と、当たり前の結論に達してしまいましたが、それでも、日本人の方がまだ優しいのではないかと思う一方で、浮世絵や日本画の方が恐ろしいとも思いました。

 

え?

(ブログのネタに困って、仕事をほったらかして行ったんやろ!)

なんでわかりました。

 

え?

明日?

ははははは……

ゴジラ俳優、中島春雄さんの御冥福をお祈りします。

ゴジラ俳優、スーツアクターの草分けである、中島春雄さんがお亡くなりになったというニュースがありました。

今でこそ、スーツアクターなんて和製英語ができて、基本的な動きについてのマニュアルもあるかと思いますが、ゴジラウルトラマン仮面ライダーが放送されたころは、大変だったのではまいかと思います。

 

アタクシも、まだ学生だったころ、昔話の金太郎のクマの役で、クマの着ぐるみを着たことがあります。

ちょうど、五月の連休だったかと思いますが、暑かったこととクマの手でしたから、一人で着替えができずに難儀したことを覚えています。

 

仮面ライダーでは、顔出しなんて言葉もあったようで、いつもは怪人なんかをやっている俳優さんが、顔の出る幹部なんかもおやりになっていたようですが、着ぐるみでもスーツでも、与えられた役所を考えてえんぎするという点では、俳優に変わりはないと思います。

 

たぶん、ゴジラを演じるにあたっては、中島さんにも相当なご苦労があったのではないかと思います。

特に、ゴジラの尻尾なんか、どうやって動かしていたんだろうとか、放射能はどうやって吐いていたんだろうかと、今でも不思議に……

 

え?

(早く大人になりなはれ……)

 

とにかく、CGに頼れる現代よりも、もっともっと工夫する能力が要求されていたのではないかと思います。

 

中島春雄さんの御冥福をお祈りするとともに、深い感謝を捧げたいと思います。

政治家の、失言をしないための具体的失言例

各省庁、担当大臣が発表されますと、新しい大臣のそれぞれの様子が報道されます。

昨今は、大臣になって報道陣の前でバンザイをして喜びを表現する方よりも、むしろ責任の重さに気を引き締めている、といった感じで報道陣のカメラに収まる方が多いなと思っておりましたが、今回、ずいぶんはしゃいでいらっしゃる方がいらっしゃるな、と思いながら眺めておりましたのが、70歳以上で初入閣された方でした。

「この人、大丈夫かいな……」

と思っておりましたら、江崎鉄磨沖縄・北方担当大臣が、迂闊なことを言わないように役所の作った書類を棒読みした、てな発言をしたということで、やり玉に上がっております。

 

改造内閣で初入閣された70歳以上の閣僚は、江崎沖縄・北方担当大臣と、中川環境大臣のお二人で、はしゃいでいたように見えたのがどちらだったかよく覚えておりませんが、国会議員としての夢が大臣の椅子に座ることだという昔(今もかな……)の発想が染み付いている方には、ご辞退願いたいように思います。

 

また、失言をしないように気をつけていると言うための失言をするなんて、そもそも言葉に対する感覚が鈍い人のように思います。

 

「政治家の命は言葉だ」

という台詞がもしほんとうなら、失言をしないための失言で窮地に立たされるような人に、政治家はやってほしくない、とアタクシ、個人的に考える次第であります。

ですから、アタクシは、政治家を目指さなかったわけでございます。

                                   デンデン

《そこまで言って委員会NP》はお笑いバラエティ番組か?

本日の《そこまで言って委員会NP》は、前回人気ということで、賛同一致でサンドウィッチ第二弾でした。

 

前回人気だったというのは、視聴者の評判がよかったのか、出演者が喜んだのか、はたまたサンドウィッチ提供スポンサーのよい宣伝になってよかったのか、判然としませんが、自民党議員と民進党議員を呼んで、改造内閣民進党代表選挙、総選挙、パチンコの出玉規制という際どいお題から、最後は物議を醸した宮城県の観光宣伝を持ってきて、一応、レギュラー陣もゲストもサンドウィッチが食べられるようにして、なお、とどめをさすように、復帰された桂ざこば師匠にご登場願って番組のお開きとしちました。

 

いつもながら、見事な企画、構成だと感心いたしました。

 

また、いつも田島さんがお座りになっている席に須田さんがおられて、

「田島さんが乗り移っている」

 

「業界主催の講演会に呼ばれている人と呼ばれてない人がわかった」

 

「今回のゲストは、大臣になれなかった人」

 

なんて、ツッコミがいつも以上に飛び交って、かなり笑わせてもらいました。

 

特に見事だったのが、ざこば師匠についてきておられた塩鯛師匠が、番組のしめの言葉を急に振られながらも、

「師匠、高速(梗塞)で出てきはります」

ここが一番勉強になりました……

 

そこまで言って委員会NP》は、討論番組ではなく、お笑いバラエティではないかと、勘違いしてしまいそうでした……

 

そんなことを例の友人に語りましたところ、

「キミの場合、見方が間違っている」

サワコの朝から〜村治佳織さんの教え〜

本日の《サワコの朝》(MBSテレビ)のゲストは、クラッシックのギタリスト、村治佳織さんでした。

 

もっとも印象に残ったのは、病気で長期休養を余儀なくされたときに、

「戦うのではなく、受け入れる」

と、お考えになったという言葉です。

中島敦先生の『山月記』にも、わけのわからぬまま運命を受け入れるのが生き物の定めだという主旨の言葉を虎になった李徴が述べる場面がありますが、それとは違って、むしろ明るさを感じる表現でした。

 

親しくされていらっしゃる吉永小百合さんご夫妻から、

「なりゆきに任せる」

という言葉をいただいて、復帰の時期を制限しなかった、というお話にも、なるほどそうだな、と思いました。

 

また、演奏にあたっては、自分を表現するのではなく、作曲者や編曲をされた方の意図を考えるところから始められるそうです。

 

「ああ、だからアタシの三題噺は受けないんだ……」

「ああ、だからアタシはカラオケ大会で落とされるんだ……」

 

そう反省しながら、

「でも、成り行きに任せて生きているはずなのに、どうしてアタシの人生は……」

 

ジャジャジャジャ〜ン!(ベートーベン大先生の『運命』)