マウント取るとか取らないとかなら、じれったい!?

 世間で言うところの、マウントを取りたい、自分が優位であることをアピールしたい人は、多分、特別な人ではありません。承認欲求があるのが人間の性だとしたら、優位性の誇示はまさにその行きつく先を象徴するものだと考えられます。だから、誰にでもマウントを取りたいという欲求があると言えます。

 ただし、上司部下、先輩後輩といった上下関係が明確であったとしても、ことさらにマウントを取ろうとするのは、立場上の、あるいは人間として自信が備わっていない証拠でしょう。パワハラ上司は、その最たるものと言えますが、そんな奴に限って、自分はパワハラ上司ではない、と言い張ります。

「なあ、おれ、パワハラ上司じゃないよな?」

 なんてことを、部下に高圧的な態度で言います。

「それがパワハラや!」

 とツッコミをい入れる部下がいたら、その上司がパワハラ上司ではないことが証明されますが、まあ、そないな上司と部下はめったにお目にかかれません。

 ただ、実際にマウントを取ろうとする族は、それによって周囲の人の評価が違ってくるということに、どれほど気がついているでしょうか?

 常に謙虚な方は、周りの人々から丁寧な扱いを受けて、ことさらにマウントを取るまでもなく、マウントを取らせてもらうこともあります。

 反対に、自らマウントを取ろうとする族は、そのために周囲の誰彼を蔑むことになって、人から妬まれ疎まれ、嫌われていることを知りません。知っていたとしたも、忌避される懸念よりも、その場でマウントを取りたい衝動に負けてしまうのでしょう。

 厄介なのは、家族、特に、夫婦です。

 封建時代の常識で考えれば、マウントを取っているのは夫だというイメージがありますが、妻がわざとマウントを取らせている、てなケースは、落語を見ていると珍しくないことがわかります。池波正太郎先生原作の『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川平蔵は、決して偉そうにふるまうことなく、妻を労わっています。

 ところが、「妻(女)は夫(男)に従うものだ」てな思想が染みついている御仁のパートナーは、実に生気の失せた表情をされています。逆の場合もあります。マウントを取ろうとする女房殿のご亭主は、毎日不快な思いを抱えて生きていらっしゃいます。

「マウントを取る」

 という言葉が耳目に触れるたびに、どっちが優位だなんてことではなく、相互に尊重する意識を持つことが大切だと思いながら、中森明菜さんが昔お歌いになっていたフレーズがいつも脳裏を走ります。

「マウント取るとか取らないとか、そんなのどうでも関係ないわ~♬」